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ば系圖などにも入れ奉らぬとかやぞうけたまはる。されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。

     第廿五顯宗天皇〈三年崩。年三十八。葬大和國磐杯丘陵。〉

次の御門顯宗天皇と申しき。飯豐天皇の同じ御腹のおとゝに坐します。乙丑の年正月一日位に即きたまふ。御年三十六。世をしり給ふ事三年。御父の押羽の皇子は安康天皇の御世三年と申しゝに安康の御弟の雄略天皇と申しゝ御門のいまだ皇子にておはしましゝに失はれ給ひしかば、その皇子二人丹波國へ逃げて坐したりしに、猶世の中をおそりたまひて、弟の君兄の君をすゝめ奉りて播磨國へおはして御名どもをかへて郡のつかさに仕へ給ひき。さて年月を過ぐし給ひし程に、おとゝの君兄の君に申し給はく「我等命を遁れて此所にて年を經にたり。今は名をあらはしてむ」とのたまひしに、兄の君、「しからば命をたもたむこといと難かるべし」とのたまひしかば、又弟の君「われ等は履中天皇の御孫なり。身をくるしめて人に仕へて、馬牛をかふ生けるかひなし。唯名を顯して命をうしなひてむ。いとよき事なり」とのたまひて、兄弟かたみに抱きつきて泣き給ふことかぎりなし。兄の君「さらば疾くわれ等が名をあらはし給ひてよ」とのたまひしかば、二人相具して郡のつかさの家におはしてあまだりのもとに居給へりしかば。呼びいれ奉りて竈の前にすゑて、酒のみ遊びなどしておのおの立ちて舞ふに、このおとゝの君我が御身の有樣をいひ續けて舞ひ給ふを、郡のつかさ聞きおどろきて、おりさわぎ拜し奉りて郡のうちの民どもを起して俄に宮づくりしてかりそめに