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てつゞけ奉りおきてかへりにき。この後は僅に船二つなどをぞ奉りし。又をこたる年々も侍りき。

     第廿一安康天皇〈三年崩。年五十六。葬大和國菅原伏見西陵。〉

次の御門安康天皇と申しき。允恭天皇の第二の御子。御母皇后忍坂大中姫なり。甲午の年十月に御兄の東宮を失ひ奉りて、十二月十四日に位には即きたまひしなり。御年五十六。世をしり給ふ事三年なり。明くる年の二月に御弟の雄略天皇の大泊瀨のみこと申しておはせし御めになし奉らむとて御をぢの大草香のみこと申しゝ人の御妹を奉り給へど、御門おほせ事ありて御使を遣したりしに、この皇子よろこびて「身に病をうけて久しくまかりなりぬ、世に侍ること今日明日といふ事をしらず。この人みなし子にて侍るを見おきがたくてよみぢも安くまかられざるべきに、そのかたちの見にくきをも嫌ひ給はず、かゝる仰せをかうぶるかたじけなき事なり。この志をあらはし奉らむ」とて、御使につけてめでたき寶をたてまつれるを、この御使これを見て耽ける心いできて、この寶物をかすめかくしつ。さてかへり參りて御門に申すやう「更に奉るべからず。おなじ皇子たちといふとも我れらが妹にていかでかあはせ奉るべき」と申すよしを僞り申しゝかば、大きにいかり給ひて軍をつかはして殺し給ひてき。そのめをとりてわが后とし給ひ、その妹を召して本意の如く大泊瀨のみこにあはせ給ひつ。三年と申す八月に御門樓にのぼり給ひてみきなど進めて遊び給ひて、后の宮に「何事か思す事はある」と申し給ひしかば、后の宮「御門の御いとほしみをかうぶれり。何事