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次の御門仲哀天皇と申しき。景行天皇の御子に、日本武尊と申しゝ第二の御子におはします。御母垂仁天皇の御むすめなり。成務天皇三十八年三月に東宮にたち給ふ。壬申の年正月十一日に位に即き給ふ、御年四十四。世をたもち給ふ事九年。筑紫にてうせ給ひにしかば、武內御骨をばとりて京へ歸りたまへりしなり。

     第十五神功皇后〈六十九年崩。年百。葬大和國狹城楯列池上陵。〉

次の御門神功皇后と申しき。開化天皇の御ひゝこなり。仲哀天皇の后にておはせしなり。御母葛木高額媛。辛巳の年十月二日位に即き給ひき。女帝はこの御時はじまりしなり。世をたもち給ふ事六十九年。御心ばへめでたく、御かたち世にすぐれ給へりき。仲哀天皇の御時八年と申しゝに、筑紫にて、神この皇后につき給ひてのたまはく「さまざまのたから多かる國あり、新羅といふ。行きむかひ給はゞおのづから隨ひなむ」とのたまひき。しかるにその事なくて止みにき。皇后今のたまはく「御門神のをしへに隨ひ給はで、世をもたち給ふこと久しからずなりぬ、いとかなしき事なり。いづれの神のたゝりをなし給へるぞ」と七日いのりたまひしに、神詫宣してのたまはく「伊勢の國鈴鹿の宮に侍る神なり」とあらはれ給ひしによりて、皇后うらにいでさせ給ひて、御ぐしを海にうち入れさせ給ひて、「この事かなふべきならばわが髮わかれて二つになれ」とのたまひしにふたつになりにき。すなはちみづらにゆひ給ひて臣下にのたまはく「軍をおこす事は國の大事なり。今この事をおもひたつ、偏になんだちにまかす。われ女の身にして男の姿をかりて軍をおこす。上には神のめぐみをかうぶ