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てこの御寺へも參らむと思ひたちてなむ。今この御寺には偏に後世たすかり侍らむ善知識にあはさせ給へと申し參れるに、かくいさぎよく後世おぼす人にあひ奉りぬるはしかるべきにこそ。世をそむく人もおのづから物いひふれ給ふ人なきはたよりなかるべき事なり。この尼も偏に子とも思ひ奉らむ。又必ず善知識となり給へ」」」といへば、修行者「「「いとうれしきことなり。今日よりはさこそ賴み申し侍らめ」」」とて又經など讀みてぞさしはてし程に「「「後夜うち過ぎてわれも人もねぶられしかば、修行しありき給ひけむ物がたりしたまへ。目をもさまし侍らむ。大峰葛城などには尊き事にも又おそろしき事にもあひ侍るなるは、いかなる事か侍りし」」」と問へば「「「年比はべちにさる事もなかりしに一昨年の秋葛城にてこそあさましき事に逢ひ侍りたりしか。常よりも心すみて哀におぼえて經を誦し奉りしに、谷の方より人のけしきのしてまうでこしかばいと物恐しくおぼえながら經を誦し奉りしに、九月上の十日ごろの事にて月の入方になり侍りしほどにほのかにそのかたちを見れば、翁のすがたしたるものゝあさましげに瘠せ神さびたるが藤の皮をあみて衣とし竹の杖をつきたるがきたれるなりけり。やうやう傍へ來寄りていふやう「「御經のいとたふとく聞えつればまうできたる」」といふ。物恐しくおぼえ侍りしかども鬼魅などの姿にもあらざりしかば、仙人といふものにやと思ひてかく申すほどに、八の卷のすゑつかたなりしかばまた一部を誦して聞かせ侍りしかば、この仙人よろこびて「「修行し給ふ人おほくおはせどまことしく佛道を心にかけ給ふやらむと見奉るが尊くおぼえ侍るなり。いかなる事にて心を起し