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     六十三代〈この御門に、元方のものゝけおはしまして、あさましかりしと、ある本に。〉

次の御門は、冷泉院天皇と申しき。御諱憲平。これ村上天皇の第二の王子なり。御母皇后宮安子と申す。右大臣師輔のおとゞの第一の御むすめなり。この御門天曆四年庚戌五月廿四日在衡のおとゞのいまだ從五位下にて備前介と聞えまつりし折の五條の家にて生れさせ給へり。同年七月廿三日東宮に立たせ給ふ。應和三年癸亥二月廿八日御元服。御年十四。康保四年丁卯五月廿五日、御年十八にて位に即かせ給ふ。世をたもたせ給ふ事二年。寬弘八年辛亥十月廿四日、御年六十にてかくれおはしましけるを、三條院位につかせ給ふ年にて大甞會などの延びけるをぞ折あしと世の人申しける。

     六十四代〈寬和元年八月廿九日出家。年三十七。御名金剛法。同二年三月廿二日於東大寺受戒。正曆二年二月十二日崩。年三十二。同月十九日葬圓融寺北原、量御骨於村上陵傍。〉

次の御門、圓融院天皇と申しき。御諱守平。これ村上の御門の第五の王子なり。御母冷泉院の同じ腹におはします。この御門、天德三年己未三月二日生れさせ給ふ。この御門の東宮に立たさせ給ふ程はいと聞きにくゝいみじき事どもこそ侍な。これは皆人のしろしめしたることなれば事も長し、とゞめ侍りぬ。安和二年己巳八月十三日にこそは位に即かせ給ひけれ。御年十一とぞ。さて天祿三年壬申正月三日御元服。御年十四。世を保たせ給ふ事十五年。惱ありて御出家、法名金剛法と申しき。正曆二年二月十二日うせさせ給ふ。御年三十三。母后の御年廿三四にて、うちつゞきこの御門冷泉院とうみ奉り給へり。〈御中に爲平の宮生れたまへり。うちつゞきはこの本のひが事なり。〉いとやんごとなき御宿世なり。御母方のおほぢ出雲守從五位下藤原の經邦といひし人なり。末の