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き。承平元年七月十九日うせさせ給ひぬ。御年六十五。肥前のぞう橘の良利殿上に侍ひける、入道してすけの御供にこれのみつかまつりける。されば熊野にても日根といふ所にて「旅寢の夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々なみだおとす、ことわりにあはれなることかな。この御門のたゞ人になり給ふ程なむ〈如元〉おぼつかなし。よくもおぼえ侍らず。御母洞院の后と申す。仲野の親王は桓武天皇の御孫なり。この御門の、陽成院の御時、殿上人にて神社の行幸にはまひ人などせさせ給へり。位に即かせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるには、「當帝は家人にはあらずや。惡しくも通るかな」とこそ仰せられけれ。

     六十代〈今の聖代桓算の事北野の御事をぞ世の中に申しつたへためる。〉

次の御門、醍醐天皇と申しき。御諱敦仁。是亭子太上法皇の第一の王子におはします。御母贈皇太后宮胤子と申しき。內大臣高藤〈此人は勸修寺の氏のはしめ〉このおとゞの御女なり。この御門、仁和元年乙巳正月十八日に生れ給ふ。寬平五年みづのとのうし四月二日に東宮に立たせ給ふ。御年九歲。同七年乙卯正月十九日、十一歲にて御元服。又同九年丁巳七月三日位に即かせ給ふ。御年十三。やがて今宵よるのおとゞより俄に御かうぶり奉りて、さしいでおはしましたりける。御手づからわざと人の申すはまことにや。さて世を保たせ給ふ事三十三年。この御年ぞかし、村上か朱雀院か生れおはしましたる御いかのもちひ殿上に出させ給へるに、伊衡の中將、和歌つかうまつり給へるとぞおぼゆめる。

  「一とせにこよひかぞふる今よりはもゝとせまでの月かげを見む」