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よりもことなりしか。人のこのきはゝ、さりともくづほれ給ひなむと思ひたりしところを、たがへむとおぼしたりしなめり。さやうなる所おはしましゝこそ、節會行幸にはかいねりがさね奉らぬ事なるを、單衣靑くつけさせ給へれば紅葉襲にてぞ見えける。うへの御袴龍膽の二重織物にて、いとめでたくけうらにこそきらめかせ給へりしか。御目の損はれ給ひにしこそいといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給ひしかども、やませ給て御まじらひ絕え給へる頃、大貳の闕いできて、人々のぞみのゝしりしに、唐人の目つくろふがあるなるに見せむとおぼして、「こゝろみにならばや」と申し給ひければ三條院の御時にて、又いとほしくもやおぼしめしけむ、ふたこととなくならせ給ひてしぞかし。その北の方には、伊豫守兼資のぬしの御女なり。その御腹の女君二所おはせし。一所は三條院の御子の式部卿の宮の北の方、今一所は傅殿の御子の今宰相中將兼經の君とぞ聞ゆる。二所の御聟をとり奉り給ひて、いみじういたはり聞え給ふめり。政よくしたまふとて、筑紫人さながら隨ひ申したりけり。例の大貳、十年が程にて上り給へりとこそ申しゝか。かの國におはしましゝ程、刀伊國のもの俄にこの國をうちとらむとや思ひけむ越えきたりけるに、筑紫には兼ての用意もなくて、大貳殿弓矢の本末をもしり給はねばいかゞと思しけれど、倭心かしこくおはする人にて、筑後、肥前、肥後、九國の人をおこさせ給ふをばさることにて、府の內につかうまつる人をさへおしとりて戰はしめ給ひければ、かやつが方のものどもいと多く死にけるに、さはいへど家たかくおはします。げにいみじかりし事平げ給へりし殿ぞかし。おほやけ大臣大納言にもな