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さぶらはせ給ひしぞかし。今一所の姬君、內侍のかみにならせ給へりし、今におはします。六條左大臣殿の御子の讃岐の守のうへにて坐するとかや。又太郞君の顯光と聞えし、堀川の左大臣と申す。長德二年丙申七月二十日右大臣にならせ給ひにき。御年七十三四にやおはしましけむ。治安元年五月廿五日ぞうせ給ひし。この五年ばかりにやなりぬらむ。惡靈の左のおほいどのと申し傳へたるいと心うき御名ぞかし。その故ども皆はかたり侍るべし。この北の方には村上の先帝の女御の宮ひろかたの御息所の御腹ぞかし。その御腹に男一人女二人ぞおはしましゝ。男君は重家の少將とて心ばへいうそくに世おぼえ重くてまじらひ給ひし程に、世に久しくおはしますまじかりければにや出家してうせ給ひにき。女君一所は一條院の御時の承きやう殿の女御とておはせしかど、院うせ給ひて後、末には爲平の式部卿の宮の御子源宰相賴定の君の北の方にて、あまたの君達うみつゞけておはすめり。そのほどの御事どもは皆人ししろしめしたらむかし。その宰相うせ給ひてしかば尼になりておはします。今一所は今の小一條院のまだ式部卿の宮と申しゝをり、聟にとり奉らせ給へりしほどに、東宮に立たせたまへりしをうれしき事に思しゝかど、院にならせ給ひにし後は高松殿のみくしげ殿渡らせ給ひて、御心ばかりは通はせ給ひながら通はせ給ふ事絕えにしかば、女御も父おとゞもいみじうおぼし歎きし程に、御病にもなりにけるにや、過ぎにしひつじの年の二月ばかりにうせ給ひにき。いみじきものになりて、父おとゞ具してこそしありき給ふなれ。院の女御には常に附き煩はせ給ふなり。その腹に宮達あまた所おはす。又堀川の攝政殿の御次郞