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 「我が身こそ恨みられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば」。御手は昔だにありしを、いとわりなうしゞかみゑり深う强う固う書き給へり。おとゞにくきものゝをかしさをばえ念じ給はで「この歌詠みつらむ程こそ。况して今は力なくて所せかりつらむ」といとほしがり給ふ。「いでこの返事は騷がしくとも我れせむ」とのたまひて、「あやしう人の思ひ寄るまじき御心ばへこそさらでも有りぬべき事なれ」とにくさに書き給ひて、

 「唐衣また唐衣唐衣返す返すも唐衣なる」とていとまめやかに「かの人の立てゝ好むすぢなれば、物して侍るなり」とて見せ奉り給へば、君いと匂ひやかに笑ひ給ひて「あないとほし。哢じたるやうにも侍るかな」と苦しがり給ふ。由無しごといと多かりや。內のおとゞはさしも急がれ給ふまじき御心なれど、珍らかに聞き給ひし後はいつしかと御心に懸かりたれば疾く參り給へり。儀式などあべい限に又過ぎて珍しきさまにしなさせ給へり。げにわざと御心とゞめ給ひける事と見給ふも辱きものからやう變りて覺さる。亥の時にぞ內に入れ奉り給ふ。例の御設けをばさるものにて、內のおましいとになくしつらはせ給ひて御肴參らせ給ふ。御となぶら例のかゝる所よりは少し光見せてをかしき程にもてなし聞え給へり。いみじうゆかしう思ひ聞え給へど今夜はいとゆくりかなるべければ、引き結び給ふ程え忍び給はぬ氣色なり。あるじのおとゞ「今夜は古へざまのことはかけ侍らねば、何のあやめも分かせ給ふまじくなむ。心知らぬ人目を飾りて猶世の常の作法に」と聞え給ふ。「げに更に聞えさせ遣るべき方侍らずなむ」。御かはらけ參る程に「限り畏まりをば、世にためし無き事と聞え