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  打ちきらし朝曇りせしみゆきにはさやかに空の光やは見し。覺束なき御事どもになむ」とあるを上も見給ふ。「しかしかの事をそゝのかしゝかど、中宮かくておはすればこゝながらの覺えにはびんなかるべし。かのおとゞに知られても女御かくて又侍ひ給へばなど思ひ亂るめりし筋なり。若人のさも馴れ仕うまつらむに憚る思なからむは、上をほの見奉りて、え懸け離れて思ふはあらじ」とのたまへば、「あなうたて。めでたしと見奉るとも心もて宮づかへ思ひたゝむこそいとさし過ぎたる心ならめ」とて笑ひ給ふ。「いで、そこにしもぞめで聞え給はむ」などのたまひて、又御返り、

 「あかねさす光は空に曇らぬをなどてみゆきに目をきらしけむ。猶覺したて」など絕えず進め給ふ。とてもかうてもまづ御裳着の事こそはと覺して、その御設けの御調度のこまかなる淸らども加へさせ給ふ。何くれの儀式を御心にはいとも思ほさぬ事をだにおのづから世だけくいかめしくなるを、ましてうちのおとゞにもやがてこの序にや知らせ奉りてましと覺し寄れば、いとめでたう所せきまでなむ。年かへりて二月にとおぼす。女は聞え高く名隱し給ふべき程ならぬも、人の御むすめとて籠りおはする程は、必ずしも氏神の御勤めなどあらはならぬ程なればこそ年月は紛れすぐし給へ、このもし覺し寄る事もあらむには春日の神の御心たがひぬべきも、終には隱れて止むまじきものから、あぢきなくわざとがましき後の名までうたゝあるべし、なほなほしき人のきはこそ今やうとては打ち改むる事のたはやすきもあれなど覺し廻らすに、親子の御契絕ゆべきやうなし。同じくは我が心許してを知ら