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ひしを、あやしう唯それかと思ひまがへらるゝ折々こそあれ。あはれなるわざなりけり。中將のさらに昔ざまのにほひにも見えぬならひにさしも似ぬものと思ふにかゝる人も物し給うけるよ」とて淚ぐみ給へり。箱の蓋なる御くだものゝなかに橘のあるをまさぐりて、

 「橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほえぬかな。世とともの心にかけて忘れ難きに慰むことなくて過ぎつる年頃を、かくて見奉るは夢にやとのみ思ひなすを、猶えこそ忍ぶまじけれ。おぼし疎むなよ」とて御手を執へ給へれば、女かやうにもならひ給はざりつるをいとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものし給ふ。

 「袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ」。むつかしと思ひてうつぶし給へるさまいみじう懷しう手つきのつぶつぶと肥え給へる身なり。肌つきのこまやかに美しげなるになかなかなる物思ひそふ心ちし給ひて、今日は少し思ふ事聞えしらせ給ひける。女は心うくいかにせむとおぼえてわなゝかるゝ氣色もしるけれど、「何かかくうとましとはおぼいたる。いとよくもてかくして人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さりげなくてあひ思ひ給へ。淺くも思ひ聞えさせぬ心ざしに又そふべければ世にたぐひあるまじき心地なむするを、この音づれ聞ゆる人々には思しおとすべくやはある。いとかう深き心ある人は世にありがたかるべきわざなれば後めたくのみこそ」とのたまふ。いとさかしらなる御親心なりかし。雨はやみて風の竹になるほど華やかにさし出でたる月影をかしき夜のさまもしめやかなるに、人々はこまやかなる御物語に畏まりおきてけ近くも侍はず。常に見奉