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もさこそはあらめ」とのたまふ。「戀しとはおぼしなむや」とのたまへば、少しうなづき給ふさまもをさなげなり。おほとなぶらまゐり殿まかで給ふけはひこちたく、おひのゝしるみさきの聲に人々「そゝや」などおぢさわげばいと恐しとおぼしてわなゝき給ふ。男はさもさわがればとひたぶるに許し聞え給はず。御乳母參りて求め奉るに氣色を見てあな心づきなや、げに宮しらせ給はぬことにはあらざりけりと思ふにいとつらく、いでやうかりける世かな。殿のおぼしのたまふことは更にも聞えず、大納言殿にもいかに聞かせ給はむ。めでたくとも物の初の六位すくせよ」とつぶやくもほのきこゆ。唯この屛風のうしろに尋ねきて歎くなりけり。をとこ君、我をば位なしとてはしたなむるなりけりとおぼすに、世の中うらめしければ哀も少しさむる心ちしてめざまし。「かれ聞き給へ。

  くれなゐの淚に深き袖の色を淺緣とやいひしをるべき。はづかし」とのたまへば、

 「いろいろに身のうきほどの知らるゝはいかに染めける中の衣ぞ」とのたまひはてぬに、殿入り給へり。わりなくて渡り給ひぬ。をとこ君は立ちとまりたる心地もいと人わろく胸ふたがりて我が御かたにふし給ひぬ。御車三つばかりにて忍びやかに急ぎ出で給ふ。けはひを聞くもしづ心なければ宮の御まへより參り給へとあれど寢たるやうにて動きもし給はず。淚のみとゞまらねば嘆きあかして霜のいと白きに急ぎ出で給ふ。うちはれたるまみも人に見えむがはづかしきに宮はためしまつはすべかめれば心やすき所にとて急ぎ出で給ふなりけり。道のほど人やりならず心細く思ひ續くるに空の氣色もいたう曇りてまだくらかりけり。