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ま思ひ亂るゝにも身の憂き事かぎりなし。尼君思ひやり深き人にて、「あじきなし。見奉らざらむことはいと胸いたかりぬべけれど遂にこの御ためによかるべからむ事をこそ思はめ。淺くおぼしてのたまふ事にはあらじ。たゞうち賴み聞えて渡し奉り給ひてよ。母方からこそ、帝の御子もきはきはにおはすめれ。このおとゞの君の世に二つなき御有樣ながら世に仕へ給へば故大納言の今ひときざみなり劣り給ひて更衣腹といはれ給ひしけぢめにこそおはすめれ。ましてたゞ人はなずらふべき事にもあらず。又みこだち大臣の御腹といへど猶さし向ひたるおとりの所には人も思ひおとし親の御もてなしもえひとしからぬものなり。ましてこれはやむごとなき御方々にかゝる人出でものし給はゞこよなくけたれ給ひなむ。ほどほどにつけて親にもひとふしもてかしづかれぬる人こそやがて貶しめられぬはじめとはなれ。御袴着のほども、いみじき心をつくすともかゝる深山隱にては何のはえかあらむ。唯任せ聞え給ひてもてなし給はむ有樣をも聞き給へ」と敎ふ。「さかしき人の心のうらどもにも物問はせなどするにも猶渡り給ひてはまさるべし」とのみいへば思ひよわりにたり。殿もしかおぼしながら思はむ所のいとほしさに强ひてえのたまはで「御袴着の事いかやうにか」とのたまへる、御返りに「萬のかひなき身にたぐへ聞えてはげにおひさきもいとほしかるべく覺え侍るを、たちまじりていかに人笑へにや」と聞えたるをいと哀におぼす。日など取らせ給ひて忍びやかにさるべき事などのたまひおきてさせ給ふ。放ち聞えさせむことは猶いと哀に覺ゆれど君の御ためによかるべき事をこそはと念ず。めのとをもひき別れなむこと