Page:Kokubun taikan 01.pdf/326

このページは校正済みです

おほざうにてかひなし。女、人知れず昔のこと忘れねばとり返して物あはれなり。

 「行くとくとせきとめがたき淚をや絕えぬ淸水と人は見るらむ」。えしり給はじかしとおもふにいとかひなし。石山より出で給ふ御むかへに右衞門の介參れり。ひとひまかり過ぎしかしこまりなど申す。むかしわらはにていとむつましうらうたきものにし給ひしかば、かうぶりなど得しまでこの御德に隱れたりしを、おぼえぬ世のさわぎありしころ物の聞えに憚りて常陸にくだりしをぞ少し御心おきて年比はおぼしけれど色にも出し給はず。昔のやうにこそあらねど猶親しき家人の內にはかぞへ給ひけり。紀の守といひしも今は河內の守にぞなりにける。その弟の右近のざう解けて御供にくだりしをぞとりわきてなし出で給ひければそれにぞ誰も思ひ知りて、などて少しも世に從ふ心をつかひけむなど思ひ出でける。介召し寄せて御せうそこあり。今はおぼし忘れぬべきことを心長くもおはするかなと思ひ居たり。一日はちぎり知られじをさはおぼし知りけむや。

  わくらばに行きあふ道をたのみしもなほかひなしやしほならぬ海。關守のさもうらやましく目ざましかりしかな」とあり。「年比のとだえもうひうひしくなりにけれど心にはいつとなく只今の心ちするならひになむ。すきずきしういとゞにくまれむや」とて賜へればかたじけなくてもていきて「なほ聞えたまへ。昔には少しおぼしのくことあらむと思ひ給ふるに、同じやうなる御心のなつかしさなむいとゞありがたき。すさびことぞようなきことゝ思へど、えこそすくよかに聞えかへさね。女にてはまけ聞え給へらむに罪許されぬべし」など