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とやんごとなくおぼされぬところどころにはわざともえ音づれ給はず。ましてその人はまだ世にやおはすらむとばかりおぼし出づる折もあれど、尋ね給ふべき御こゝろざしもいそがでありふるに、年かはりぬ。卯月ばかりに花散里を思ひ出で聞え給ひて忍びて對の上に御いとま聞えて出で給ふ。日ごろふりつる名殘の雨少しそゝぎてをかしきほどに月さし出でたり。昔の御ありきおぼし出でられて艷なる程の夕づく夜に、道のほどよろづの事おぼし出でゝおはするにかたもなく荒れたる家の木立しげく森のやうなるを過ぎ給ふ。大きなる松に藤の咲きかゝりて月かげに靡きたる、風につきてさと匂ふがなつかしくそこはかとなきかをりなり。橘にはかはりてをかしければさし出で給へるに、柳もいたうしだりて、ついひぢもさはらねば亂れふしたり。見し心地する木立かなとおぼすははやうこの宮なりけり。いとあはれにておしとゞめさせ給ふ。例の惟光はかゝる御しのびありきにおくれねば侍ひけり。召し寄せて、「こゝは故常陸の宮ぞかしな」。「しか侍り」と聞ゆ。「こゝにありし人はまだやながむらむ。とぶらふべきをわざと物せむもところせし。かゝるついでに入りてせうそこせよ、能く尋ねよりてをうち出でよ。人違へしてはをこならむ」とのたまふ。こゝにはいとゞながめまさるころにて、つくづくとおはしけるに、ひるねの夢に故宮の見え給ひければ覺めていと名殘悲しくおぼして、もりぬれたる廂の端つかたをおしのごはせて、こゝかしこのおまし引きつくろはせなどしつゝ例ならず世づき給ひて、

 「なき人を戀ふる袂のひまなきに荒れたる軒のしづくさへそふ」も心苦しき程になむあ