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り、つかさくらゐを取られ家を離れ境を去りて明暮安き空なく歎き給ふに、かく悲しきめをさへ見、命盡きなむとするは前の世のむくいか、この世のをかしか、神ほとけ明にましまさばこのうれへやめ給へ」とみ社の方に向きてさまざまの願を立て、又海の中のりうわう、萬の神たちに願たてさせ給ふにいよいよ鳴り轟きておはしますに續きたる廊に落ちかゝりぬ。ほのほ燃えあがりて廊は燒けぬ。こゝろたましひなくてあるかぎり惑ふ。うしろの方なる大炊でんとおぼしき屋に移し奉りて上下となく立ち込みていとらうがはしく泣きとよむ聲いかづちにも劣らず。空は墨をすりたるやうにて日も暮れにけり。やうやう風なほり雨のあししめり星の光も見ゆるにこのおましどころのいと珍らかなるもいとかたじけなくて、寢殿にかへし移し奉らむとするに燒け殘りたる方もうとましげにそこらの人の蹈み轟し惑へるにみすなども皆吹きちらしてけり。夜を明してこそはとたどりあへるに君は御ねんずし給ひておぼしめぐらすにいと心あわたゞし。月さし出で潮の近く滿ちけるあともあらはに名殘猶寄せかへる浪荒きを柴の戶押しあけて詠めおはします。近き世界に物の心を知り、きし方行くさきの事うちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。あやしき海士どもなどの、たかき人おはする所とて集り參りて聞きも知り給はぬ事どもを囀りあへるもいと珍らかなれどえ追ひも拂はず。「この風今暫しやまざらましかば潮のぼりて殘る所なからまし、神の助けおろかならざりけり」といふを聞き給ふもいと心細しといへばおろかなり。