Page:Kagoshima pref book 4.pdf/13

このページはまだ校正されていません

序  説

 明治十年丁丑の役は啻に蓋國の一大事變であつたのみならず、本縣爾後の發達にとつて眞に至大の關係を有した。即ち或る意味に於て、本縣々政の第一歩は十年兵燹の灰燼の中より踏出されたのであつた。 而もその道程は艱難を極め、爾後數年の間、縣當局にとつては根本的施設方針の檢討、中央政府との調整、或は地租改正等未解決の諸問題の處理等、再起復舊の難事業が課せられたのであつた。一方百萬の縣民にとつては、荒廢した鹿兒島始め諸郷の復興、教育・産業・交通等の再建に對する不撓の努力が要請されたのである。 斯くて明治十六年七月に至るや、宮崎縣の分割再置により本縣は諸縣郡の南半を除く日向國大半を失ふことゝなつたが、こゝに現管轄地域は定つた。恰もこの後二三年にして、縣政漸く軌道に乗りて整備し、且つ全國的にも地方制度の