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が、これは恐らく前年の戰功によつてでなく、六年毎の隼人貢上としての入京の故であらう。 隼人の交代の入京が、戰亂によつて時期が少しく延びたが、ここにまた從前の如く行はれることゝとなり、この年から六年目の天平勝寶元年八月にも、大隅・薩摩兩國の隼人が御調を奉り、士風歌舞を奏して居るが、この時、前の曾乃君多利志佐は從五位下に、外從五位下前君乎佐は外從五位上に、外正六位上曾縣主志自羽志・岐直加禰保佐は外從五位上に叙せられて居る。 併し天平勝寶元年以後十數年間は、續日本紀に、隼人交替の記事が見えないが、天平寶字七年正月、朝堂に於て、隼人が唐・吐羅・林邑・東國人と共に樂をなし、翌八年正月には隼人相替の記事がある、蓋し中間一回分だけが國史から漏れたものであらう。 この時には外從五位上前公乎佐が外正五位下に、外正六位上薩摩公鷹白、薩摩公宇志が外從五位下に叙せられた。 然るにその後三年、神護景雲元年九月には慶雲の瑞祥により、隼人司の隼人百十六人も、有位無位を論せず爵一級を賜はつた。 また同三年十一月、大隅・薩摩の隼人が俗伎を天覧に供へ、外從五位下薩摩公鷹白、加志公島麻呂は、共に外從五位上に、正六位上甑隼人麻比古、外正六位上薩摩公久奈都、曾公足麻呂・大住直倭・上正六位上大住忌寸三行等は外從五位下に叙せられ、其の外の隼人等にも各賜物の事があつた。 また寶龜七年二月、大隅・薩摩の隼人が南門にて俗伎を天覧に供し、外從五位下大住忌寸三行、大住直倭は外從五位上、外正六位上薩摩公豊繼は外從五位下に叙せられ、その他八人にも叙位の事あり、越えて延暦二年正月、大隅・薩摩兩國の隼人は、朝堂に於て餐を賜ひ、天皇臨御あらせられ、叙位・賜物等當例の如く、同十二年二月にも曾於郡大領外正六位上曾乃公牛養が隼人を率ゐて入京し、外從五位下に叙せられた。

 以上は皆六年交替の制に據つたものであつた。 然るに、恰も次の交替の期、延暦二十年に至つて、六月十二日太宰府に命じて、隼人を進むることを停めしめられ、更に廿四年正月に、自今永く大替隼人の風俗歌舞を奏することが停められた。 かくて上古以來の例典が此處に終を告げ、その代り、大同三年十二月に、これより後、定額の隼人の闕員は之を京畿在住の隼人より補ひ、衣服粮料も簡單にして、衛士に准ずる事となつた。

 而して、在京隼人の爲めには隼人司が置かれてあつて、大寶令の規定では、衛門府の管下とし、正一人・佑一人・令史一人・使部十人・直丁一人等の職員が置かれ