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石小麻呂が謀反した事を載せ、春日小野臣大樹が敢死の士一百を率ゐて之を誅伐したとある處を見れば、それ程、多人數でなかつたらしいが、猪養野以外の地方に移り來たつたものもあつたと思はれる。 正倉院文書天平五年の右京計帳に阿太肥人床持賣と見え、同十年の駿河國正税帳に遠江國使肥人部廣麻呂なる者が載つて居る、以て肥人が相當廣い範圍に移つて居た事が察しられよう。

 而して此の肥人も夷人として取扱はれ、令集解に引用する古記に、夷人雑類とは、毛人・肥人・阿麻彌人等の類と載せて居る。 肥人が如何なる種族に屬したか詳かでないが、隼人族とは別記されゐたことは間違ない。 播磨の肥人が猪の飼養をして居た事は前に述べたが、古事記安康天皇の條に、山代の猪養の老人の事が見える、或は之も肥人であらうか。 なほ肥人といふ名稱は熊國、即ち後の球磨郡に多かつた爲に出來たのであり、また肥の字を宛てたのも肥國に多かつた爲であらう。 尤も薩摩にも少くなかつたと見えて、天平八年の薩摩國正税帳には肥君の名が多く見えるのである。

 熊襲の傳説は甚だ古く、その眞相は詳かならず、簡單に隼人即ち熊襲なりとの見解を取るものもあるが、古事記に熊曾國を建日別と云ふが、その地理的説明なく、却つて日本書紀や風土記にある熊襲征伐の地理的記事を考へるならば、その地域は肥人の根據地と同一の様に考へられるから、或はこれも肥人の叛亂の如くにも見られまいか、即ち熊津彦兄弟や襲國の渠帥厚鹿文・迮鹿文等の熊襲の八十梟帥もこの族でなからうかと思ふ。

 思ふに肥人は山間の險地に據り、朝命に應ぜなかつた爲に屢々討伐されて次第に勢力を失ひ、他國に移れる者は猪養等を業とし、又肥人部なる特種の品部を定められたものがあり、其の故郷に在るものは肥君等の土豪に支配されたものと考へられる。