Page:Kagoshima pref book 1.pdf/44

このページはまだ校正されていません

額田部湯坐連の條に、其の祖先が允恭天皇の御代に、薩摩国に遣はされて、隼人を平げた事を載せて居るが、これを史實としても、これより先日本書紀履中天皇即位前紀に仁徳天皇子住吉中皇子の近習の隼人刺領布サシヒン古事記には隼人曾娑加里)と見え、仁徳天皇の頃既に隼人は他の諸國と同様に、舎人・帳内としてその族人を朝廷に貢してゐる。 更に、新撰姓氏録の秦忌寸の條には、雄略天皇の御代、小子部雷が大隅・阿多の隼人を率ゐて、諸氏族に却略せられた秦の民を検括鳩集した事を載せて居り、日本書紀に、雄略天皇崩じ給ひて丹比高鷲原陵に葬り奉るや、隼人晝夜陵側に哀號して、食を與ふれとも喫はず、七日にして死す、よりて墓を陵北に造り、禮を以つて葬すとある、この隼人が天皇近習の隼人であつた事は云ふ迄もない。 これらの事は隼人が比較的早くから皇化に服し、朝廷に仕へ奉つたことを示すものに他ならない。

 其の後、日本書紀清寧天皇四年の條、欽明天皇元年の條及び齋明天皇元年の條等に、隼人が衆を率ゐて上京した事が見える。 記事甚だ簡單であるが、これ等は、天武天皇の十一年七月、隼人多く來りて方物を貢し、大隅隼人と阿多隼人とが朝廷で相撲したること、天皇崩御の際に、大隅・阿多の隼人の魁帥が、各其の衆を領して誅を奏し奉り、持統天皇は此等三百三十七人に賞を與へ給ひたること、又同三年正月に筑紫太宰府から隼人一百七十四人、並に布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚を 獻じたこと、又は九年五月には、隼人の相撲を御覧ぜられた事等に併せ考へたならば、同様な事があつたと思はれる。

 而して前述履中天皇や雄略天皇の御代に於ける近習の隼人の事を考へ、又日本書紀敏達天皇十四年八月の條の、三輪君逆が敏達天皇の殯庭防衛の事に隼人をして當らしめた事などから、隼人の中には常に在京して居る者も多かつたことゝ思はれ、天武天皇十四年六月に、大隅直が忌寸姓を賜はつて居るが、當時、賜姓の他に諸氏の例から推して、大隅國造家の人も大和に於て此の榮に浴したものと考へられるのである。 斯様に在京の隼人も多かつたから、犬養部・日下部・坂合部等の品部に編入せられるものもあつたと見えて、新撰姓氏録には、右京神別に、阿多御手犬養を火闌降命六世孫薩摩若相樂の後と載せ、攝津神別に、日下部を阿多御手犬養と同祖、火闌降命の後と云ひ、和泉神別に坂合部を火闌降命七世孫夜麻等古命の後とし、右京神別に坂合部宿禰を火闌降命八世孫邇倍足尼の後と載せてゐる。