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向隼人曾君細麻呂と云ふのが見えてゐるが、當時は大隅がまだ日向國に屬して居る時分故、所謂日向隼人は、やはり大隅の隼人であつたかもしれぬ。 又阿多は南薩の地である。 それ故、隼人は薩隅兩國及び其の附近の島嶼に多かつた事が知られるのである。 此の事は文獻のみでなく、考古學上、古墳の分布などから見ても同様に云へるかも知れない。 即ち日向に多い古墳群は太平洋岸に沿うて南下し、志布志地方より大崎地方に至つて大に發達し、更に唐仁町・野崎地方の古墳群に連なつて居るが、大隅半島を縦貫する山脈以西から薩摩國一圓には、山陵以外には未だ墳土を有する古墳が發見されてゐないが、伊佐郡より出水・薩摩等北方諸郡に、地下式土壙及び組合せ石棺を有するも封土なき古墳の存在が報告されてゐる。 この事は、古く此の地方が久しく隼人族の地であつて、未だ中央の文化を傳へて古墳を營むことがなかつた事を暗示するものではなからうか。

 隼人は、古くは阿多隼人と大隅隼人との二によつて代表されたが、續日本紀には、大寶以後、薩摩隼人の名が頻出して阿多隼人の名に代り、大隅隼人と共に隼人族を代表して居る。 けれども他の典籍には、なほ大隅隼人に對して阿多隼人と載せたものが多く、新撰姓氏録にも、大隅・阿多の二隼人を擧げてをり、又延喜式の如きも、大隅隼人に對するに阿多隼人の語を以つてして居る。 此等に據つて考ふれば、古く隼人の根據地は、薩摩では阿多地方であり、大隅では大隅郡であつた。即ち其の中心地は最初共に薩摩・大隅兩半島に在つたのであるが、後その中心が薩摩では阿多より薩摩郡地方に、大隅では大隅郡より國分地方に移つたと考へられるのである。これ等は交通上からの結果であらうが、一方に、大隅に於いては依然大隅隼人の名を残し、薩摩に於いては阿多と薩摩と全く轉換したにも拘らず、中央に於いては尚ほ阿多隼人の名を残して居る事は、蓋し中央に於ける朝儀等の上では、永い習慣、古い傳統に基くもので、天孫瓊瓊杵尊がまづ阿多に到りましたと云ふ神代紀の傳へには、簡單に看過すべからざる問題の伏在するを感ぜしむるのである。

 隼人族は何時皇化に服したかは詳かでない。 天孫瓊瓊杵尊が當地方に到りましたのは、隼人征伐の爲であつたと説く學者もあるけれど、もとより根據であつての説ではない。國造本紀には景行天皇の御代に隼人征伐の事が見えるが、之は熊襲征伐の傳説と混同してゐるかも知れない。又新撰姓氏録の