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景行天皇の妃日向髪長大田根媛は日向襲津彦皇子を、次妃襲武媛は國乳別皇子と國背別皇子と豊戸別皇子とを生み奉り、襲津彦皇子は阿牟君の祖、國乳別皇子は水沼別の祖、豊戸別皇子は火國別の祖と日本書紀に見え、阿牟君・水沼別・火國別は何れも西國の豪族である。 蓋し日向髪長大田根媛も襲武媛も、天皇が高屋行宮にまし/\た際か、或いは其の後に召し出されたものであらう。而して此の後、應神天皇の御時の髪長媛の如く、日向から佳人を奉る風習は此處に原因が發して居ると思はれる

 上來説くところによつて襲國は、後世の傳説の如く、國分地方ではなく、日向大隅の界の山地であつたと想像すべきである。霧島山の東から北の地は諸縣君の領するところとなつて諸縣の名で呼ばれ、襲の國の名は大隅囎唹の地名として傳はつたと考へられる。其の後、仲哀天皇の御代の熊襲征伐の際には、葦北國造の祖鴨別をして討たしめたと云ひ、葦北國の故地は肥後國葦北郡一帯であらうから、熊襲はやはり此の附近の山地に據つてゐたと思はれる。

 以上の如く、景行天皇の御代より仲哀天皇の御代に至る熊襲征伐は、本縣の北隅より宮崎・熊本の二縣の南方に連亘する山嶽地帯に蟠居した虜酋の征討であつて、或は殆んど直接本縣と關係がないと云つてもよいのである。 しかし景行天皇の高屋宮御駐輦は六年の長きに亙り給ひしと傳へてゐるのであるから、大隅地方に御巡幸あらせられたとの傳説があるのも必ずしも否定することは出來ないのであらう。 天皇が、熊襲親征より御歸京の御巡路の如きも、風土記の記事が、日本書紀の記述と大いに趣を異にして居る故、簡單に日本書紀のみ據つて斷ずる事が出來ないであらう。 從つて景行天皇及び日本武尊が大隅の各地を御巡歴あらせられたと云ふ傳説も多少據り處があつたかも知れない。