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つて襲國悉く平定した。 かくて天皇は尚ほも六年間、高屋宮にましましたる後、十七年三月子湯縣に幸せられ、次いで十八年三月、筑紫の夷守の地に至り給ひて、石瀬の河邉にて諸縣君泉媛の大御餐をうけ給ひ、四月、熊の縣に到りまして、熊津彦兄弟のうちなる兄熊を歸服せしめられ、弟熊を誅せられ、更に葦北に向ひ給うた。 以上の御巡幸の御道筋から見れば、天皇は日向の子湯縣から諸縣を經、轉じて肥後の球磨から葦北に向はれたのであるが、本縣肝屬郡内之浦町の天子山には、景行天皇の行宮趾の傳へがある。

 その後、天皇の廿七年八月、熊襲が再び反したので、十月、日本武尊をして之を討たしめ給うた、此の時の熊襲の魅帥は取石鹿文、一名を川上梟帥と云ふものであつた。尊は十二月、熊襲國に到り、賊酋を平げ給うたのであるが、地理的記載がない爲に、どの邊での出來事か判明しない。 國分地方の傳説に據れば、景行天皇の御代、大人の隼人なるもの容貌夜又の如く、隼人城と上井城とに據つて皇命に随はず、仍て天皇親征し給ひて御子日本武尊を副将とし、遂に拍子橋にて討取ると云ひ、その賊酋を大人彌五郎殿ヤゴロトンと傳へて居る。 尚ほ其の遺蹟と傳承するものも現存して居るが、此等は寧ろ奈良朝時代の隼人反亂が傳説化したもので、有名な日本武尊の西征に附會したに過ぎないと見た方が穏當かと考へられる。

 以上の如く景行天皇の御代に於ける二度の熊襲征伐中、地理的記述のあるのは、天皇親征の時の記事だけで、その内、襲國討伐の根據地となつた日向高屋宮は兒湯郡に其の遺址と稱するものを傳へて居る。 此の宮に御駐輦中、子湯縣丹裳小野に遊び給うたが、子湯は即ち兒湯であり、丹裳小野は妻町西都原の南端三宅神社に程近い處だと云ふ。 因に三宅神社の所在地三宅は古く屯倉であつた地であらうし、日向の國府を置かれたのも此の附近である。

 天皇は高屋行宮御駐輦中、御刀媛ミハカシを召して妃とせられ、豊國別皇子が生まれ給ふた。 この皇子は日向國造の祖で、又日向諸縣君の祖と傳へられて居る故、御刀媛は諸縣君の女であつて、その御所生の皇子が御母の土地を繼承せられ、日向國造の祖になり給うたことかと考へられる。 此の後、日本書紀應神天皇紀に諸縣君牛諸井と云ふ人があつて、其の女髪長媛を朝廷に獻ずる事が見えてゐる。髪長媛とは次に云ふ髪長大田根媛と同様、髪の長い佳人の意であるが、父を諸縣君とするによつて、豊國別皇子の後裔かとも考へられよう。また