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第二編 國造時代

第一章 熊襲の服屬

 神武天皇の御東遷より七百四十餘年を經た景行天皇十二年八月、熊襲が反して朝貢せざるを以つて、之が御平定のために天皇は御親ら軍旅を率ゐさせられて筑紫へ發御あらせられた。 熊襲は、豊後・肥後の兩國風土記及び釋日本紀巻十引用の肥後國風土記等の所々に球磨 囎唹・球磨 贈於・玖磨 囎唹等と記され、又天皇御征の記事中にも、襲國と熊國との事が見えるのである。 故に熊即ち球磨は肥後國球麻郡の地方であり、襲即ち囎唹は大隅國囎唹郡の邊で、熊襲とは此の兩地方に亘る山間に蟠据して居たものと考へられるのである。

 さて、日本書紀の記事に據れば、天皇はまづ、周防の娑磨より豊前に渡り給ひ、次いで豊後を經て、同年十一月、日向に至り給ひ、高屋に行宮を營まれ、其の地を根據として襲國御平定の籌策を運らせ給ふたのである。 時に襲國の渠帥は、厚鹿文アツカヤ迮鹿文セカヤの二人であつたが、其の女市乾鹿文イチツカヤに殺され、翌十三年五月に至