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に頴娃郡があるが、之は續日本紀文武天皇四年の條に衣評エノコホリと載せ、和名抄には頴娃を江と訓じ、郡内に頴娃郷を収めて居る故、本居宣長を初めとして、御陵は此の方面かと説く學者もあつたが、其後の學者の0研究は、多く高城郡水引郷宮内村八幡山であるとみなし、明治七年七月十日御裁可を經て、八幡山即ち今の薩摩郡川内町大字宮内に御治定を見るに至つた。

 御陵に續きて中陵・端陵の二陵があつて、これは尊の御近親の陵墓かとも説かれ、又此の地方の傳説に、尊は阿多地方より此の地に遷御あらせられ、大宮を營み給うたと傳へてゐる。 此の地の新田神社については、同社所藏寶治元年十一月の文書に「薩摩國遷御之後者、龜山峰奉□神御躰、以此社新田宮」とあり、又建長・文永以降の文書にも同様な記事を載せて、古くから新田宮は瓊瓊杵尊の崇廟にして、日城無雙の霊廟と傳承せられてゐた所である。同社は承安三年正殿巳下炎上し、同四年山麓より山頂に移し奉るべきか、否かの事を奏聞し、其の後山上に社殿を建立せられたのである。

 彦火火出見尊は、最初、御兄火闌降命と海幸山幸の事から爭ひ給うたが、鹽士老翁の勧めに從って海神綿津見命の宮に赴かれ、潮満瓊と潮涸瓊とを獲給ひ