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皇祖裒能忍耆命、日向國贈於郡高茅穂槵生峰ニアマクタリマシテ、是薩摩國閼駝郡竹屋村ニウツリ玉ヒテ、土人竹屋守ガ女ヲメシテ、其腹ニ二人ノ男子ヲマウケ玉ヒケルトキニ、彼ノ所ノ竹ヲカタナニ作テ、臍緒切給ヒタリケリ。其竹ハ今モ有リト云ヘリ。

と載せて居る。 この塵袋に引用せられたものは假名書にしたものであり、或は何處までが風土記の文であるか詳かではないが、塵袋編者の見た風土記に裒能忍耆命の天降りまいた所は日向國贈於郡高茅穂槵生峰とあつたのである。 果して然らば日向國風土記には、臼杵郡と贈於郡の兩處に天孫の御降臨に關する記事があつたであらうか、兩方とも逸文で今何れとも断じ難いであらう。囎唹郡以下の四郡が日向國から分れて大隅國が創置されたのは和銅六年四月であり、風土記撰上の詔が發せられたのはその翌月であるから、塵袋の引用した逸文はその以前のものか以後のものか決し難いが、日向國に二種の風土記があつたと云う事は疑問とされなければならないと云はれ、大隅國建置後の日向國から奉れる風土記に日向國囎唹郡などゝあるのも疑問であらうと。併し塵袋はたゞ「風土記ノ心ニヨラバ」として日向國贈於郡、薩摩國閼駝郡の傳説を載せてゐるが、或は大隅國風土記から抄録しながら、丁度釋日本紀に引用されてゐる山城國風土記に、「日向國會之峰天降坐神」とあるが如く、一般的な日向の襲の高千穂峰と云ふ知識から、日向國贈於郡高茅穂槵生峰と書いたものでもなからうか。併し、それは何れとしても、この塵袋所引の風土記の逸文を直ちに拒否して、たゞ知鋪郡に就いての釋日本紀等にある日向國風土記の逸文のみに據つて説をなすことは困難である。まして日本書紀以下最も信據するに足る文獻には、何れも襲山即ち襲の高千穂峰とあるを以てすればなほ更である。

〈〔補説〕高千穂の遺稱かと考へられてゐる智鋪・智保・知保の地名に就いては上述の外、大隅國に於いても三國名勝圖會巻之三十三に「此峰今霧島を以て通稱とすといへども、往古は高千穂と號す、因つて此邉を呼て智尾といふ(中略)。智尾の地名囎唹郡古領主の文書に見えたり、康暦三年五月廿日齢岳公弟子丸若徳賜ふ書に曾於郡智尾名事云々あり(中略)。弟子丸村は今囎唹郡内清水邑に屬す、其村内智尾神社あり(中略)。今にも此神祠近邉の地名を智尾といふ、又當邑重久村に智尾名といへる地名もあり(中略)、建久八年日向國圖田帳に、臼杵郡高智尾社八町、且文保元年幕府より邦君道義公を以て諸所地頭とする下文に、日向國高千尾庄と書す、彼此既に訛りて、世上に行はること此の如し」とある事を付記して置く。〉