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西南役の結果、かゝる特殊事情は除去され、爾後中央政府諸制度の完備と相俟つて、縣政の發展愈著しく、以て今日に及んでゐる。

 本縣は現在薩摩・大隅二箇國、一市十二郡百三十九町村よりなる。 鹿兒島・揖宿・川邉・日置・薩摩・出水・伊佐の七郡は薩摩國に屬し、大隅國は姶良・囎唹・肝屬・熊毛・大島の五郡である。併し國郡の境域も名稱も時に依りて異なり、明治の置縣以降も幾多の變遷を繰返して今日に及んだ。

 本縣の地域は、もと宮崎縣の地域と併せて單に日向と呼ばれ、次いで日向國に管せられたが、その後薩摩・大隅の兩國として分離建置された、而もなほ永い間現在の囎唹郡の一部は日向國諸縣郡に屬してゐた。 また國司時代の薩摩國の十三郡、大隅國の八郡にも、庄園の發達と共に次第に郡の私稱分立したものがあつた。 而して明治四年廢藩置縣の後同年十一月大隅國及び日向國諸縣郡とを割いて都城県を置き、同六年都城縣を廢して宮崎縣を建置するに際して、大隅國の諸郡は鹿兒島縣に、日向國諸縣郡は宮崎縣に屬した。然るに明治九年宮崎縣を廢して本縣に合併し、同十六年に至つて再び宮崎縣を復活した時、日向國諸縣郡を南北に分割して、南諸縣郡を本縣に合同し、次いで南諸縣郡を廢して大隅國囎唹郡に併せたのが明治二十九年四月のことである。