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第七章 社寺と社寺領の發達

 神代の霊蹤たる薩隅の地には、古くから霧島神宮・鹿兒島神宮を初め、枚聞神社・新田神社等の名神大社ありて、神威兩國に遍く、時代と共に一段と國史上に輝き見はれ、益その由緒を明かにして來るのである。

 文武天皇の御時薩摩隼人征伐に際し、大宰府所部の神九處に禱祷し、神威に頼つて荒賊を平定したと云ふので、大寶三年十月、幣帛を奉り、諸神を鎮祭した。 其の後内亂、外寇及び天變地異等、國家の重大事に際し、祈請を凝し、官社に列し、官幣を奉り、神階を進められたものが多く、殊に此の隼人征伐に關して、八幡神の崇敬が最も盛んであつて、後世に大きな影響を残して居る。

 天平十四年十月廿三日末時より廿八日まで、大隅國の空中に大鼓の如き聲があつて、地大いに震動したので、使を大隅に遣はして檢問し、且つ神命を請ひ、次いで天平寶字八年十二月には、大隅薩摩兩國の堺麑島信爾村の海中に噴火して三島が出來た。 神造新島がこれであつて、大穴持神を祀る事とし、寶龜九年十二月に至り官社に列せられ、更に、弘仁五年二月幣帛に預る事となつた。 又延暦七年七月には大隅國囎唹郡曾乃峰が噴火したが、之は或は霧島神社と關聯する處があつたでなからうか。 降つて仁壽元年六月には、薩摩の賀紫久利神が官社となり、貞觀二年三月には從五位上開聞神が從四位下に、從五位下志奈毛神・白羽火雷神・智賀尾神・賀紫久利神・鹿兒島神が從五位上に、正六位上伊尒色神が從五位下に昇り給ひ、同七年五月には從五位上賀紫久利神に正五位下を、正六位上紫美神に從五位下を授けられ、更に同十年三月にも正六位上紫美神に從五位下を授け奉り、同十五年四月に薩摩國正六位多夫施神に從五位下を授け奉つた。

 この内、賀紫久利神社は、延喜式には一に加紫久利神社とあつて、出水郡の名祠であるが、その官社に列せられ、神位頻りに昇り給ひし理由としては、一説に當社の本宮は薩摩と肥後との界に屹立する秀峰矢筈嶽で、國司が當國に赴任する際、その神霊を迎望し、祈願を凝した爲めであるとも云はれて居る。

 また神階の最も高い開聞神は、今の開聞神社にして、薩摩の南端、開聞岳の北麓に鎭座して、開聞岳は薩摩富士と稱へられて、山容の秀麗、遠望の佳なること