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「さあ、ここまで来れば一安心だ。とにかく、手を洗って着物を着換え給え」

 青年はそう云って、壁にかけてあった彼の着ているのと同じような労働服を取って、土井の前に差し出した。土井は首を振った。

「そんな必要はない」

「馬鹿云っちゃいけない。まあ、一度手と服とをよく見給え」

 そう云われて気がついて見ると、土井の上衣には血が一面に飛び散っていた。ズボンは血でジトジトだった。手はねばねば血潮で真赤に染まっていた。

 土井は大人しく青年の出した金盥かなだらいで手を洗って、労働服に着換えた。ひどく窮屈なものだった。

 青年は土井の脱ぎ棄てた上衣のポケットを探っていたが、彼は土井が忘れていた原稿料の這入った袋を取り出した。

「あっ、それは」土井は叫んだ。

「ほほう」青年は感嘆したような声を出した。「小説家らしいとは思っていたが、君が土井江南かね」

 青年はあきれたような顔をして、土井の顔をしげしげ見た。

「どうして又、君は人殺しなどをしたのかね」

「僕は殺しやしないったら」土井は腹立しそうに答えた。

「ふん、しかし君は短刀を握っていたじゃないか」

「あれは殺した奴がお礼だと云って握らせたのだ」

可笑おかしな話もあるものだね。お礼の印に君に嫌疑を向けさせるようにしたのかね。そしてそのお礼だというのはどう云う訳なんだ」

「僕が人殺しの現場に立ち会ってやったからさ」

 どうせ、信用される気遣いはないのだ、勝手にしろと云う気で、土井は吐き出すように云った。

「ふん、そうか。確かに君じゃないんだね」青年はじっと考えていたが、「そうか、あいつか、ふむ、じゃ矢っ張り出し抜かれたんだな」

 暫らく首を捻っていた青年は急に気がついたように、手にしていた土井の原稿料の袋の口を開けた。

「大分這入ってるね。これは君にも入用だから上げて置こう。袋は持っていない方が好い。君は頗る危険な位置にいるのだから、くまで労働者の積りで居るがいいよ」

 青年は紙幣を無造作に摑んで、土井のポケットに突込んだが、袋は彼のポケットに入れてしまった。

「まあ、夜が明けるまで、あの寝台で一寝入りし給え。随分草疲くたびれたろうから。朝になれば君は大手を振って、出て行けばいいのだ」

 云わるるままに土井は寝台の傍に寄った。彼は実際疲れていた。それに考えたい事が沢山あった。

 彼は、ゴロリと寝台の上に横になった。

 彼は今夜経験した奇妙なそうして恐ろしい出来事について考慮を巡らした。彼は実際人殺しをした覚えはないのだから、甚だ不利な立場にいるとは思ったけれども、そう警察を恐れてはいなかった。深夜浅草界隈を逍遙さまようた事も、彼の職業的立場から云い開きは出来るし、それに床水や満谷も証言してくれるに違いない。怪しい老人に会ってから以後の事は、弁明がしにくいが、土井にはあの未知の女を殺す理由がある筈がなく、あの怪老人が由利で、殺されている女が由利の情婦だと云う事でも判明すれば、嫌疑も薄くなると云うものだ。して見ると土井は反って非常に面白い経験をしたと云う事になる。井戸川や、床水、満谷などを羨望させる事が出来る、そう考えると彼はちょっと愉快だった。