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 自動車は尚一二けん前進した後に、辛うじて止まったが、中からあわてて飛び出して来た白髪頭の紳士は、看守もよく知っている市立病院の院長だった。院長に続いて立派な奥さん風の婦人が、倉皇そうこうとして降りた。看守は無論院長夫人と思い込んだ。

 婦人は直ぐ倒れている囚人の所に走り寄って、甲斐々々しく抱き上げたが、狼狽している院長を顧りみて、

「あなた、大変です。早く病院に連れて行って、手術をしなくっては」

 突然の出来事にすっかり落着きを失くしてしまった院長は、婦人の云うままにうなずくばかりだった。彼は今日の夕刊に仰々しく出るであろう所の自分の名の事を考えて、泣きたいような気持だった。

 看守はもとより独断で囚人を処分する事は出来なかったが、何分急を要する事ではあり、殊に対手は尊敬すべき病院長ではあるし美しい院長夫人の云うままに、唯々として傷いた由利鎌五郎を鎖から放ち、そのまま自動車に乗せて病院に送る事を承知した。

 残余の囚人を引連れて、一先ず帰所した看守は早速この事を上司に報告した。刑務所では容易ならぬ事件なので、選抜された数名の所員が、直ちに病院に派遣された。ところが、驚いた事には、院長は先刻往診を求めに来た美しい婦人と共に、迎えの自動車に乗って出た切り、未だ帰って来ないと云う返事だった。

 刑務所長は見苦しい程狼狽した。直ちに警察署にこの旨を急報して手配を求めて、一方非番の看守を駆り集めると、警官と共に極力捜索を試みたが、怪自動車の行方は一向知れなかった。

 兇悪な由利の事とて、自由の身となってはどんな事をするかも知れないので、警察署長の心配も一通りではなかった。

 夕刻になって、院長は茫然として只一人で帰って来た。

 院長の話によると、その朝或る有力者の紹介状を持って――その紹介状は後に調べて見ると偽造したものだった――一人の婦人が訪ねて来て、子供が死にかかっているので、是非往診に来てくれと、涙を流しながら頼み込むので、仕方なく応じて、迎いママの自動車に乗ったのだった。ところがその途中で車が囚人を礫き倒したので、心配の余り茫然としているうちに、同乗した婦人がすっかり指図をしてくれたので、負傷した囚人を自動車に乗せる事になった。

 院長はやや安心していると、自動車は病院の方に向わないで飛んでもない方向に走るので、驚いて婦人にママなじると、病院よりも自宅の方が近いし、子供も死にかけている所であるから、とにかく、宅まで来てくれと云う返事に、院長も返す言葉がなく、走るままに委したのだった。

 ところが、途中、町端ずれママの淋しい所で、自動車が急に止まると、二人の壮漢が現われて、無理やりに院長を引摺り下して、附近の一軒家に監禁してしまった。そうして夕刻になってようやく帰宅を許されたと云うのであった。

 警察署では院長の言葉を基礎として、怪自動車の行方を全力を挙げて捜索したが、遂にその片影だに摑むことが出来なかった。で、院長は警察では散々に油を絞られ、輿論から攻撃されると云う体たらくで、人の好いばかりに飛んだ災難を背負わねばならなかったのだった。

 その後も全国の警察署が聯絡を取って、由利を厳重に追跡したが、一向効果が挙らなかった。一月ばかり経った時に、由利の自筆で、自分は自分を裏切った女に復讐を遂げるために脱監したが、目的を遂げ次第自首するから、その間見逃して置いてくれと、云った意味の手紙が警視庁へ舞込んだので、刑事達は色めき渡って、手紙を基に四方を尋ね廻ったが、依然として彼の行方は分らないのだった。