「あつたようです」
「その事件は本人は極力犯行を否認するし、弁護人も証拠不充分を力説したにも拘らず、遂に死刑になつたそうですね」
「あなたは何の為に、そう云う話をするのです」白田の声はやゝ鋭かつた。
「彼がかつて問題の家に住んでいたのです」
「え、彼が?」元検事は明か〔ママ〕に狼狽した。私は腹のうちで手をうつた。
「あなたは最近あの家を手に入れられたのですから、御存じないのも無理はないのですが、彼は法に問われるようになる少し前に、家族の者とあの家に引移つて佗住居をしていたのです。彼が死刑になつてからも、家族はまだ暫く住んでいました」
「本当かね」
「ほんとうですとも。この遺族たちは最後にはすつかり収入がなくなつて、みじめな生活をしたそうです。彼の母親はもう七十に近い高齢だそうですが、心労と貧乏とですつかり瘦せ衰えて、最後の息を引取る時には、半狂乱で係りの検事――名前は聞き洩らしましたが、母親は息子はなんの罪もないのに、その検事のために死刑にせられたのだと思いつめて、その検事を罵りつゞけて死んだのだそうで、実に物凄かつたと云います」
「そんな筈はない」彼は独語のように呟いた。顔色が少し変つたようであつた。
しめたと私は思つた。私は一体堪え性がないので、笑いを嚙み殺して、こゝまで話すには随分骨が折れた。実は私はこゝへ一つの企みがあつて来たので、単に家を買う事を破談にする為にだけでなく一人の可哀相な老人を救ける為であつたのだ。
私は学校を出てから数年しか経たない一青年会社員で、家族と云つては妻と一人の子供に過ぎなかつたし、借家住居が身分相当であり、又󠄂格別不都合な事もなかつたが、幸い死んだ父󠄁が、少しぱかりの遺産を残して置いて呉れたので、この頃の流行の群衆心理にかぶれて、郊外に自分の家を持ちたいとあせつたのであつた。で、私はいろ〳〵な売手とその仲介人に逢つた。私はこの世の中に売手と仲買人とが無限にあるのは驚かざるを得なかつた。
こうした売手の中に、或時、私は藤井と云う老人を見出した。紹介者が私の友人であつたし、彼が他の多くの悪賢い売手達と違つて、十分信頼の出来る人であつたので、私は可成打解けて話した。それに、始め私は彼の持家である郊外の三四軒の一群から、一軒だけ買う積りだつたのだが借地の関係から一軒だけ放すのが面倒な事になつたり、地代の事で地主と折合がつ