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たりした家がありましたので、警察当局は緑の手紙の取締方を怠りませんでした。

 そのうちに緑林荘の主人あるじの鳥沢治助の事がやかましく噂されるようになりました。

 この鳥沢治助と云うのは実に奇怪な人物です。彼は洋画家なのですが、何でも若い頃に日本を飛び出してヨー口ッパに行ったのですが、パリ辺りでは画をくどころか、殆ど乞食同様の生活をしていたと云います。それがどうして工面したのか、或年のサロンに風景画を一枚出品したのが、非常に評判になり、忽ちその天才を認められて、全欧州の賞讚の的になって、ベルリンではカイゼルに謁見を許されたと云う程でした。彼はその後続々傑作を発表して、いつの間にか大金持となり、意気陽々として故国に錦を着て帰朝したのでした。

 ところが彼はどうしたのか帰朝後は一枚のスケッチすら発表せず、東京郊外の目黒に堂々たる邸宅を作って、その周囲を見上げるような緑葉樹で囲んで、緑林荘と名づけました。一体緑林と云う言葉は支那の故事にると、一種の団隊的窃盗せつとうを意味するので、云わば今の馬賊見たいな者だそうです。彼の友人のうちにはその事を彼に話して、改称を勧めましたが、彼は一向そんな事は気に留めず、改称しようとしませんでした。友人の間では彼が始めからそうした故事のある事を知っていて、わざと緑林荘とつけたのではないかと云われていました。

 盗賊を意味するような文辞を住宅につけて平気でいるような男ですから、彼は万事につけて変っていました。一部の人達の間には彼は狂人であると云う噂が早くも立ちました。彼は滅多に友人達に顔を見せず、広い邸宅に少しばかりの召使と住み、殆ど一室に閉じ籠っていました。まれに人に会う時には、彼は猜疑心に富んだ眼でジロジロと見て、容易に親しみを現わさなかったそうです。

 彼はそうした男でしたから、彼が緑の手紙に依って、急に邸名の内外を緑色に塗り出した時にも、誰一人不審に思うものはありませんでした。彼は屋根の瓦を緑色にしました。壁と云う壁、カーテン、敷物、机、椅子、ありとあらゆるものを緑色に塗りました。彼の家の内外には緑色以外のものは何一つありませんでした。

 彼を知っている人は、彼の狂気きちがい染みた性質から、彼が緑の手紙によって、緑色が幸福を齎らすものと信じて、そう云う風にしたと云う事を疑いませんでした。彼の奇怪な生活振りに多少の調査を試みた警察当局者も、最初はそう信じていたようです。しかし、後には彼が緑の手紙によって、そうしたのではなくて、彼が何かの事からふと緑色が幸福を齎らすものと思い込み、自ら実行すると共に、彼自身が緑の手紙を書き送った最初の人間ではないかと疑うようになりました。彼が真実緑色を信仰したのか、又自分の奇行を胡麻化すために、世の中に緑の手紙を流布させたのか、その点は明瞭はつきりしませんが、彼が緑の手紙の発案者ではないかと云う考えは、相当根拠があるようです。当局者もその点について、かなり苦心して探査したようでしたが、確実な証拠を押える事が出来なかったらしいのです。

 さて、鳥沢が緑林荘の内外を緑色に塗りつぶしたと云う事がパッと評判になり、緑の手紙があなどり難い潜勢力で流行しだし、そこここにはポツポツと鳥沢にならって、緑色に家の内外を塗る者が現われて、警察当局者がその取締方に腐心している時に、突如として緑林荘内で、穴山市太郎の変死事件が起ったのでした。



 穴山事件の前の揷話エピソードとして、富士丸事件があります。

 富士丸と云うのは鳥沢が金に飽かして作った軽快な遊覧船で、彼は矢張緑が幸福の源であると云う