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「うむ、腹の減った時に食物にありついたと云うものは嬉しいものだなあ。僕も昔君と同じ経験があるよ」

「あなたが――まさか」

 私は二つ目のパンを咽喉に引かけて眼を白黒させながら云いました。「ところが全くなんだ」彼は珈琲を入れる手を休めて、真顔になって云いました。「僕は君のような経験があるんだよ。もっとも日本じゃない――独逸ドイツなんだ、グリウネワルドと云う地方でね、グリウネワルドと云うのは緑の森と云う意味でね、森林地方なのだよ。そこでね、僕は飢えてね、時候は今と正反対の冬の最中だった。向うの冬は寒いからね、飢えの他にもう少しで凍える所だった。時刻は矢張今日のように真夜中だったが、一人の奇妙な老人に呼び留められてね、森の中の家に連れて行かれて――」

 ここで彼は急にぷっつりロをつぐみました。そうして愕然としたと云う風に四辺あたりを見廻しましたが、怯えた眼を私に向けました。

「君、何か物音を聞かなかったかね」

「いいえ、別に」

「そうか、それでは気のせいだ。僕はグリウネワルドの話をすると、いつでも妙な恐怖に襲われるのでね、きっと気の故だ。もうこの話は止そう」

 彼がそう云って再び恐ろしそうに四辺を見廻した時に、遠くの部屋でカタリと鼠の騒ぐような音がしました。彼は飛上りました。

 彼は真蒼な顔をして暫く無言でいましたが、やがて、勢なく立上りました。

「君、ちょっと失敬するよ。変な物音がしたから、見廻って来る」

 そう云って彼は部屋の外に出て行きました。

 彼の態度はかなり変でしたけれども、私は格別気にも留めず、彼の出て行ったのを幸いに、殆ど夢中で食物を口に運び入れました。

 私が最後のソーセージの一片を頰張っている所へ、彼が帰って来ました。

 彼は何となくソワソワとしていました。顔色も前よりズッと蒼ざめて、元気がなくなっていました。

「何でもなかったよ」彼は私の顔を見ると、弁解するように云いましたが、直ぐ言葉をついで、

「すっかり食べてしまったね。も少し御馳走をしようと思ったが急に用が出来てね。すまないが、今夜はそれで辛抱して寝てくれ給え。ところでね」

 彼はここで言葉を切って、しげしげと私の顔を見ました。覗き込んだ彼の眼差まなざしには、何となく異様な光がありました。

 私はぞっとして思わず一足後へ退りました。

「ところでね」彼は相変らずじっと私を眺めながら、「君は緑色が幸福な色である事を知っているかね、君は黄色と青色の混合である緑色が幸福を齎らす事を信じなければならぬよ。それから富士山の神秘を探るんだね。いいかね、富士山だよ、甲斐と駿河の境にある富士だよ」

 私は彼の真顔を正視する事が出来ませんでした。ああ、今ようやく私は知ったのです。彼は狂人でした。狂人でなくて、誰がこんな訳の分らぬ言葉を真面目な顔をして、述べるでしょうか。私はたじたじと後に退すさりました。

 彼はこれだけの事を云い終ると、悲しげな表情をして、最後の一瞥を私に与えると、そのまま無言で部屋を出て行きました。