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最後に、この豐かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現實性とによつて自己の存在を實現する媚態としての「いき」を定義して「垢拔して(諦)、張のある(意氣地)、色つぽさ(媚態)」と云ふことが出來ないであらうか。


註(五)「春色辰巳園」卷之七に『さぞ意氣な年增になるだらうと思ふと、今ツから樂しみだわ』といふ言葉がある。また「春色梅曆」卷之二に『素顏の意氣な中年增』といふこともある。また同書卷之一に『意氣な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶くはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々』の言葉があるが、卽ち、ここでは「いき」と形容されてゐる女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、從つて「年の功」を前提としてゐる。「いき」の所有者は、『垢のぬけたる苦勞人』でなければならない。