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る。「いき」は安價なる現實の提立を無視し、實生活に大膽なる括弧を施し、超然として中和の空氣を吸ひながら、無目的なまた無關心な自律的遊戲をしてゐる。一言にして云へば、媚態のための媚態である。戀の眞劒と妄執とは、その現實性とその非可能性によつて「いき」の存在に悖る。「いき」は戀の束縛に超越した自由なる浮氣心でなければならぬ。『月の漏るより闇がよい』といふのは戀に迷つた暗がりの心である。『月がよいとの言草』が卽ち戀人にとつては腹の立つ『粹な心』である。『粹な浮世を戀ゆえに野暮にくらすも心から』といふときも、戀の現實的必然性と、「いき」の超越的可能性との對峙が明示されてゐる。『粹と云はれて浮いた同士』が『つひ岡惚の浮氣から』いつしか恬淡洒