Page:Iki-no-Kozo.djvu/39

このページは校正済みです

愛と思ふ人もなし、思ふて吳れるお客もまた、廣い世界にないものぢやわいな』といふ厭世的な結論とを揭げてゐるのである。「いき」を若い藝者に見るよりは寧ろ年增の藝者に見出すことの多いのは恐らくこの理由によるものであらう(五)。要するに「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起原をもつている。さうして「いき」のうちの「諦め」從って「無關心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を經てすつきりと垢拔した心、現實に對する獨斷的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。『野暮は揉まれて粹となる』といふのはこの謂に外ならない。婀娜つぽい、かろらかな微笑の裏に、眞摯な熱い淚のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の眞相