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 伊集院驛より南薩枕崎に通ずる南薩鐡道は伊集院伊作間が大正三年四月一日開通し伊作加世田間は同年五月十日加世田枕崎間は昭和六年三月十日開通した。

 此等鐡道線路の距離を示せば伊集院驛より饅頭石まで七・七粁五、東市來まで五・九粁、門司まで三七九・五粁である。又伊集院驛から伊作までは十八粁二、加世田まで二十九粁、枕崎まで四十九粁六である。

 自動車は南薩、北薩、鹿兒島方面にも通じ交通至便であるが國道の變更と交通の便とは伊集院町に貨客の滞留宿泊すること少き爲昔時の宿場的繁榮を失ひ藩政時代の面影は全く見られなつた。

 伊集院町に郵便局の開設せられたのは明治五年七月一日にて貯金業務の開始は同十八年十月一日、爲替事務は同二十一年九月十六日、小包取扱は同二十六年三月一日である。又電信事務は同二十七年三月二十六日電話事務は同四十三年二月二十六日保險事務の開始は大正五年十月一日にて現在の局長は種子島潔氏で局員二十五名を指揮して新設敏活に通信事業に盡瘁しつゝあり。


第五節 海外交通

 西薩の海岸地方は風向きや潮流の關係上支那朝鮮との交通に便なるため室町時代から大陸地方との通商が盛であつたことは倭寇に依つても推知せらるゝのである。此の西薩地方の豪族にて朝鮮と通商を開いた者は島津伊久、市來親家大藏久重、大藏國久、甑島の藤原忠滿坊泊の代官只國伊集院頼久煕久などである。

 海東諸國記、世祖實録、盛宗實録などに依れば薩、隅、日三州の藩主、豪族などの中で最も盛に朝鮮と通商した者は伊集院煕久にて其書信の回數は實に四十有六に及んでゐる。併し其の年代を研究すれば煕久が島津氏に叛き島津忠國(第九代)の爲に攻撃せられ居城伊集院城を棄てゝ肥後に奔つた寶德二年から以後のことで甚だ疑ふべき記録であるが煕久の出奔後も尚伊集院氏の名を僭稱した士民があるのであらう。申叔舟の海東諸國記に

乙亥年遣使來朝書稱薩摩州伊集院萬鎭隅州大守藤原煕久約歳遣一二船

此の乙亥の歳は康正元年(紀元二一一五年)に當る即ち煕久の肥後へ出奔した六年の後である乙亥が巳亥なれば應永二十六年に當り煕久の父頼久が朝鮮と通商した後で正鴰を得てゐるやうである。此の後の四十五回も悉く年代正しからざるは海東諸國記の誤記か、或は伊集院氏領内の人士が煕久の名を冐したものであらう。

 煕久の父頼久は應永二年(紀元二〇五五年)朝鮮に使臣を派し更に同十三年使を遣はしてゐる。要するに伊集院氏及び伊集院附近の人士は室町時代から盛んに海外に進出したことは明かである。

 参考の爲海國諸國記に現はれた西薩地方人士の通交史を摘記すれば

戊子年遣使來朝稱市來太守大藏氏國久宗貞國請接待、忠國從弟爲其管下都府

戊子年遣使來朝書稱薩摩州市來千代太守大藏氏久重宗貞國請接待

丁亥年遣使賀観音現像書稱薩摩州古志岐島代官藤原忠滿

戊子年遣使來朝稱薩摩州房泊代官只吉宗忠國請接待。