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明治十年調査の日本地誌提要の驛路は鹿兒島四里十六町三十四間、伊集院三里十七町三十六間、市來湊四里二町十四間、向田東手三里三十五町五十七間、西方(高城郡)三里十三町三十七間、阿久根五里二十三町五十三間、米津三里十七町四十三間、肥後國水俣。合計六驛二十八里十九町三十三間となつてゐる。

 又明治十七年鹿兒島縣調査の交通路線に就て次のやうに記してある。九州街道一に出水街道と稱し國道三等に屬す鹿兒島郡犬迫村の界から石谷村と竹の山村の界を過ぎ、土橋村、清藤村、猪鹿倉村、下谷口村を經て伊集院驛に至り伊集院驛より西徳重村、大田村、寺脇村、苗代川を經て永里村、伊作田村、湯田村、大里村、湊村を經て市來驛に至る云々と。

 藩政時代鹿兒島城下から上國に通ずる街道に東目と西目との兩街道があつた。東目街道は加治木横川、大口、山野を經て肥後國水俣に出づるものである。天保以前は藩の財政裕かならず街道の修繕などを顧みる餘裕もなつかたので、漸次荒廢しつゝあつたが、天保年間に至り調所廣郷が家老となつて後、毎年農閑の時に郡奉行や地方檢者をして地方農民を監督して道路を修築せしめ、民力にて及ばざる大工事のみを藩費にて修めしたから弘化年間に至つて大に道路の面目を改めた此の時分改修した主要道路は南は鹿兒島、指宿を經て頴娃に至るもの、西は鹿兒島より出水に至るもの、即ち前記の西目街道、東は磯街道より日向方面に至るもの、及び人吉に通ずる道路で其の延長實に二百餘里に達したのである。

 現在の出水街道である鹿児島市西千石町西端西田橋口から甲突川左岸に沿ひ、伊敷、河頭、小山田、中川、麥生田、下神殿、下伊集院を經て苗代川の北方に於て舊西目街道と合する新國道は明治二十年六月縣下の國縣道改修の工を興し、五ヶ年の後、竣功したもので國道第三十七號二十六里二十五町餘は鹿兒島、市來、川内、阿久根、米津を經て熊本縣境に至るもの第三十八號は鹿兒島、重富、加治木、濱之市、敷根を經て宮崎縣境に至る十六里三十一町餘である

 昔は主要なる國道には松並樹を植ゑ一里毎に一里塚を建てたものである。豊臣秀吉は全國に命じて石造の一里塚を建てしめたので薩藩でも此の石碑が残ってゐる處があるだらう。江戸時代になつて各藩共に街路樹を植ゑるやうになり薩藩にては寛永、正保の頃出水の地頭山田昌巌が出水街道に並樹を植ゑたのが始で、明暦三年宮之城領主島津久通が藩の家老職時代伊集院街道に街路樹を植ゑ、萬治三年には日向路に之を植ゑた。現在横井街道に在る並樹は島津久通の植ゑた記念樹である。寶永五年二月藩の御勝手方により藩内に布達した申渡しに曰。

一、往還の道筋並木植候儀諸國一統に被仰渡植調有之候得共古來並樹の大道筋にも道筋相直古道には並木有之新道には並木無之所見分不宜候間新道にも植次可申候事

一、大道筋にて無之候共爲差立通路筋には並松、並樹、並杉等其の所の土地に相應の木を致吟味、或植付、或立候様にも可仕事

一、右之外にも、外城迄、外城往還の道筋同斷植木差様見合に○可仕候事 (以下略)

 此のやうに衛生上と風致上より植樹に努めて來たのであるが、近來僅かの財を得んとて此の並樹を伐採賣却する俗吏あるのは慨はしきことである。

 鐵道が伊集院を通過し始めたのは大正二年十月十一日にて鹿兒島と東市來間に開通し、爾來各工區毎に開通運轉をなし昭和二年十月十七日鹿兒島門司間全通し、鹿兒島本線となつたのである。