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建久年間伊集院の郡司伊集院時清の領知であつたが其の後日日置北郷の下司小野家綱の次男家長の領となり、小野姓を改めて大田を氏とした家長の子忠家其の子家氏の代に至り、肥前國松浦荘、早湊荘、福萬石の地頭となり、松浦に移つたので伊集院氏が歴代之を領することゝなつた。寶德二年伊集院煕久が島津氏に叛して居城壹宇治城を攻略せられ肥後に奔りたる以來は藩主の直轄となつたことは前述の通りである。

三、清藤村

藩政時代には藩の御藏所在地で近在の納米は此の藏に納めたのである。

四、戀ノ原村

源爲朝が居住した地であるとの傳説があり、爲朝原といふ地名が村の東北に残つてゐる。

五、飯牟禮村

島津忠久時代から島津宗家の領地であつたが享保十一年第二十二代の藩主島津繼豊は之を島津但馬に領知せしめ、明治二年藩籍奉還時に及んだ。

六、古城村

伊集院氏の始祖久兼の父島津俊忠が伊集院に封ぜられた時に此の村に築城して治所としたのであるが、久兼の代に壹宇治城に移つたのである。

第四節 交通通信

 延喜式に依れば薩摩國の驛馬、傳馬は次の通である。

驛 馬 市來、莫禰アクネ、納津、田後タシリ、楪野、高來各五匹
傳 馬 市來、莫禰、納津、田後      各五匹

 此の楪野を「イチヒノ」と訓むとの説をなす學者あるも如何にや。尚大隅國の驛馬は蒲生、大水の二ヶ所にて各五匹となつてゐる。

 後紀の記す所によれば桓武天皇の延暦二十三年(延喜式の出來た時から九十七年以前)太宰府が上申して大隅國、桑原郡、蒲生驛と薩摩國、薩摩郡田尻驛との間は相距ること遠く遞送に困難であるから、薩摩郡楪野に新たに驛を置かんと朝廷に請ひ之を許したとある。夫で此の驛傳は桓武天皇以前から定められてあつたことが分るのである。納津の地に就て和名鈔諸國郡郷考に薩摩国日置郡納薩の地名は延喜式に謂ふ納津のことなるべし。今の網里なるべしと註してあるが或學者は納津の納の字は細の字の誤りにて細津即ち「コメノツ」米津のことであると言つて居る。

 古事類苑地部に筑前國山家より薩摩國鹿兒島に至る街道を記したる中に薩摩國、日置郡串木野村芹ヶ野、串木野間七町三間、串木野と濱村間三里三十町四十五間、濱町と谷口村野町(又呼伊集院)間二里四町四十二間、野町と鹿兒島犬迫間二里二十九町十一間、犬迫と鹿兒島築町間、△里五町二十一間とある。之に依れば九州の幹線道路は鹿兒島犬迫、伊集院、市來湊、串木野を經たことが分るのである。封建時代に藩主島津氏の参勤交代する道路は鹿兒島から西田町水上坂、横井、伊集院を通過したのである。