年次/外城 | 寛永十六年 紀元二二九九年 戸主人員 |
貞享元年 紀元二三四四年 戸主及二三男其 |
寶暦六年 紀元二四一六年 戸主人員 |
天明三年 紀元二四四三年 戸主人員 |
鹿児島城下士 | 一、一五〇 | 五、三八八 | 三、四八六 | 三、二一二 |
薩摩國外城士 | 五、一五九 | 一六、六九九 | 八、七三九 | 一七、〇六八 |
大隅國外城士 | 三、二三八 | 一三、〇五三 | 七、四〇七 | |
日向國/薩摩郡外城士 | 二、九九六 | 九、五九二 | 四、一〇七 | |
合計 | 一二、五四三 | 四四、七三二 | 二、三七三九 | 二〇、二九〇 |
備考 | 明治三年八月調外城戸數は三萬八千戸と記した文書があるが、是は寶暦六年、天明三年の戸數との差が大である。 |
以上外城制度を詳述したのは軍事、行政上我が薩摩藩獨特のもの即ち軍政組織であつたことを知るが爲である。殊に伊集院は藩の直轄地で城下に接し外城中の尤なるものであつたからである。要するに我が薩摩藩が武家制度の始より其の終了まで七百年間一貫せる軍政を布き兵を要地に分散配置し、兵農兼務の制度を採つて來たことは士風民俗を維持作與する上にも行政上にも偉大な効果があつたことを記すべきである。
外城制度を以て善政を布き軍備を整備し來つた薩摩藩は他の企及し能はざる強大なる威力を以て二百六十有餘の大小名を指揮して明治維新の大業を翼賛し王政に復せしむるや明治二年二月二十日藩の政治機構を改正し、從來の家老若年寄大目附などの職を廢し新たに知政所を置き執政、参政、傳事などを置きて政務に執らしめたが諸郷の地頭は依然存置して政務を繼續せしめた。
明治二年四月鹿兒島城下を始め、諸郷に常備隊を編成せしむることゝとなり、伊集院郷に於ても亦之を編成したのであるが常備隊の編成が略成らんとするや從來諸郷の三役であつた噯、組頭、横目の三役を常備隊の小隊長、半隊長、分隊長に任じ地頭の管下に在つて諸郷の政治を行ふと共に定目に於ける軍隊の調練に任ぜしめた。即ち軍政を名實共に實施するものである。
この年諸郷の併合分置を行ひ、常備隊の編成と民政とを調節したが地頭制は變らなかつた。次いで同年六月版籍奉還のことあり、薩摩藩主島津忠義は鹿児島知藩事を拝命して依然藩治に任じてゐたが、同四年七月廢藩置縣の令に依り知事の職を罷め鹿兒島縣参事が政治を行ふことゝなつた。以來縣内を數十の區に分ち統轄したのであるが、明治十一年に於ける薩、隅、日三國大小區郷村調に依れば伊集院郷は第二十二大區にて其の村名は次の通である。(二十九ヶ村)
- 上神殿村、下神殿村、徳重村、土橋村、入佐村、郡村、麥生田村、苗代川村、大田村、福山村、中川村、嶽村、石谷村、有屋田村、直木村、寺脇村、戀之原村、宮田村、上谷口村、野田村、飯牟禮村、桑畑村、神之川村、清藤村、竹之山村、春山村、古城村、猪鹿倉村。
- 右の外浦附として神の川浦がある。
明治十七年八月鹿兒島縣に於て調査した伊集院郷内の村名も亦右と同一である。
明治十二年區を廢して郡となし日置郡、阿多、甑島の三郡を統括する郡役所を西市來の湊町に創設し、同十四年七月此の郡役所を廢して甑島郡を高城郡に、阿多郡を川邉郡に、日置郡を鹿兒島郡の管轄内に入れた。同二十年六月には