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 外城の區劃は前期の通州、郡、郷、邑、村の境界に關係なく郷邑の大小と地形の如何を顧慮し軍事上、行政上の要求に合するやうに區劃した。而して此一域區内に城郭があつて其の麓に武士を集團定住せしめ此處を府本又は麓を稱した。麓内には精神結合の中心として神社を祀り寺院墓地を設けて士分以下の霊位を納め事變に當りては祖先墳墓の地に骨を埋むるの覺悟をなさしめ、又武器糧秣の倉庫もあつた其の一、二を擧ぐれば。

1、外城衆中は軍役米を外城の藏に貯藏して模合米となし毎年秋季に於て之を新米と入れ替へ差引勘定をなして残つた米は之を賣り軍用金として保管す。
2、外城は火薬弾薬庫を充實し中央部より援助なくても事變に應ずるの準備をなす。

 外城制度の確立したるは義弘、家久時中のやうであるが明らかではない。外城の數も時々變更されてゐる今藩史に現はれたる主なる時代の外城數を擧ぐれば、

第十八代  家久時代  八十六外城
第十九代  光久時代  百二十四外城
第二十一代 吉貴時代  百二十七外城
第二十五代 重豪時代  百十八外城
第二十九代 忠義時代  百〇五外城  

 光久時代八十六外城重豪時代九十二外城との記録もある。

 外城役人は地頭の下に三役といふアツカヒ。組頭。横目(年寄)がゐた。元文四年三月藩廰仰渡しに。

 外城諸役の儀噯組頭外は七八年相勤、右年數相勤候譯申出役儀斷可申出旨被仰度候

 又島津重豪の時代に外城を改めて郷となし、外城衆中を郷士と改稱した時に噯は郷士年寄と改稱し、慶應元年五月郷士を衆中の名に復し郷士年寄を噯の名に復せしめた。歴朝制度に。

 以前より外城と唱來候へども郷と可相唱候近外城近名杯と唱來候へども近郷、近村又は近在と相唱尤書付等にも可相認候

 右之通被仰付候段申來候此旨不洩様可致通達候

  天明四辰四月

 慶應元年五月藩令にて次の通布達があつた。

諸郷々士之事
何方衆中
郷士年寄之事
右者往古より郷士之事を外城衆中、郷士年寄は噯又は噯役等と役名唱來候處安永天明之度に追々當分之通被召替置候得共此節被復舊名右之通役名等被相改候
五  月            帯 刀

 地頭の任務は軍事の外に教育、殖産、行政、司法、警察等の事務を總轄し、噯は地頭の命を受けて外城一切の事務