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日本の大陸政策も法規せざるべからざるに至りたるのみならず、新興の唐は盛は勢で朝鮮を侵略し遂には新羅と共に日本を窺はんとする情況であつたからである。此の後孝謙天皇の天平勝寶八年筑前国怡土村に怡土城を築かれたが、爾來比の種の城郭は築かれなかつたのである。即ち外城は都城とは全然其の性質を異とするのである。

 太宰管志に薩摩國千代(川内のこと)を説明した中に「千代に五ヶ都城あり」とあり、又和漢三才圖繒伊集院の部に「郷村帳に薩摩郡伊集院とあり今も都城のある處なり」と記されてゐる。又大日本地名辭典には薩摩の外城を説明して都城と外城と文字を異なるのみとあり。此等は皆都城なる城郭と誤解したものである。

二、外城(ソトシロ)と外城(トジヤウ)

 此の二者は武人間に誤解せらるゝものであるが、日本城郭の種類や郭の名稱などが各様に使用せられたる爲に誤られたものであらう。外城トシロとは一國々主の居城に對して國内の各地に分布せられた分派堡式の小城郭を意味することもあり、又一城の中で城将の居る曲輪(本丸牙城内城などといふ)に對して他の曲輪を外城ソトシロと稱することもあるのである。

 薩摩藩の外城トジヤウは此の外城ソトシロから制度化したもので藩主島津氏の居城、鹿兒島の内城を中心として國内要害の地に分派せられた外城を配置してあつたが、豊臣徳川氏の一國一城制度に依り其の城郭は破毀せられたけれども外城を守つてゐた将兵は之を鹿児島に引き揚げることなく外城の麓に定住せしめて警備に任ぜしめた。此の警備がやがて軍政の形となり遂には外城を中心とする一地區間の政治機構となつたのである。

 此の外城制度を軍事上より見る時は兵力の分散配置で之を稱して陣を國中に布くといふのである。又行政上から見れば一の自治團体で藩廰の施政方針に據りて自治を行ひ、風教を維持し産業を振興せしめるのである。思ふに島津氏は源頼朝の始めた守護地頭の制度を踏襲し二者の任務を地頭といふ一役人に兼任せしめたものであらう。元より國郡の制度は孝徳天皇以來巖として存在するのであるが、薩摩藩の外城は此の郡邑村などに關係なく軍事上と行政上の要求に應ずるやうに地方を區劃したものである。此の外城制度も地頭といふ職名も我が薩摩藩獨特のもので之に依て外敵を防ぎ國内を統御し武力を蓄へて王政復古の大業を翼賛し奉つたのである。

 徳川幕府が一國一城を巌命してより各藩にては國内の城を毀ち國境や要地の武士は皆之を藩主の城下に集めたのであるが、薩摩藩にては武士を外城の下に定住せしめたから寛永十年十月幕府の巡檢使が薩摩に來た時に家老川上久國等を詰問して次のやうな問答があつた。

問 大阪の役以來幕府は制令を出して一國一城となし、餘は悉く毀たしめたのであるが、薩、隅、日三州内には往々にして城郭があるのは何故であるか。
答 三州内の田畑は城郭と一つになつてゐるから城郭を毀てば土石で田畑を塡め耕作が出來ないから其の儘放棄してある。
問 其の城下に武士の家が多く集まつてゐるのは何故か。
答 昔島津義久は九州を領してゐたが關白秀吉は六州を削りて三州となした其の六州の武士を三州内に移し田畑を給したのである。

斯く巧みに遁辭を構へて國内に兵力を分散し陣を國内に布いたのである。