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ヌ早くも男に化けやがつたか、今度こそ許さぬぞと手に持つた傘にて其の男をしたたか擲りつけた。籠の男はビツクリして誰だ。何をするのだ。と振り向いたのを見ると臆病先生と心安き近所の人であつた。

六、種子田市兵衛翁殉節之地

 文久三年、鹿兒島前ノ濱薩英戦争に於ける薩藩の勝利は弘安の役以來の大痛快事として各藩の間に傳はり、各藩は戦争御見舞と稱して盛に使者を派遣して視察せしむ。薩藩にては當時他藩の使者鹿兒島城下に入ることは非常に迷惑にて人を遣はし途中に於て之を謝絶せしむ。 種子田市兵衛翁は命を受けて伊集院へ出張。此等使者の謝絶に當れり、使者の中に筑前黒田侯の使者あり、薩摩侯に手交すべき黒田侯の親展書を携へ、是非城下に通り君命を全うせんことを求む。黒田侯は元來島津家とは姻戚の關係淺からざる間柄なり。 種子田氏屢々事情を陳べ以て藩の訓令を仰きて許されず、是に於て幾度か彼の使者を打ち果さんと思ひしも、斯くては黒田侯に對する我が藩主の禮にあらずと思ひ、七月二十日の朝も自ら歸麑して訓令を仰ぎ而して遂に容れられず。 同日午前、荒田町なるの自宅に立ち寄り、母氏に暇乞し早晝飯にて玄關より馬に乗りて伊集院に向ふ。母氏此の時「ムデナコツシアルメド」(見苦しい事な爲給ひそ)と勵まさる。

 此の伊集院は妙圓寺の六月燈(昔は妙圓寺の大祭は義弘公の命日七月二十一日にて其の前夜二十日の夜が内祭にて六月燈)にて種子田氏の旅館(中の油屋屋號)にも夕刻より主人有助留守し、家人は皆六月燈見物に出拂ひ種子田氏が鹿兒島より連れ來り居られたる小者仁才も六月燈見に遣はされ、其の後にて切腹せらる。蓋し禮は癈つべからず。 君命は重く身ば輕し、殊に王政復古翼賛の大事業を控へたる薩藩の此の場合、種子田氏の執るべき道更に他になく遂に節に殉す。 思慮周密非常の人傑にあらずば殆んど能はざるところ而も僅に葬式を許されしのみ、事秘密に附せられ時人之を知らず、後世久しく其の眞相を辨せず通はすべからず他藩の使者に城下に通られし、責に任じ屠腹せりとなすものあるに至る悲しいかな。

 旅館中の油屋は中門なともあり。士分の投宿する伊集院町一流旅館にして伊集院町の中央南側現家村醫院の在る地なり。

 他藩使者の宿泊せる旅館は角の油屋にて現在の安樂盛藏氏方なり。

 使者の應接折衝をなしたるは御假屋にて現伊集院小學校本校舎の中央附近ならんか。

猪鹿倉城

 島津氏は島津忠久公以下五代百四十二年(百四十七年?)出水郡野田に居られ、後伊集院猪鹿倉城に遷られしと野田村故老吉滿氏より聴く

薩摩芋の傳播は伊集院から

 薩摩芋は青木昆陽の宣傳等に依り讃岐國より全國に傳はりしものなるが、其の薩摩芋は伊集院より只一ヶ初めて讃岐國に入りし事は餘りに世に知られて居ない。

 甞て(年號不覺)讃岐國の行脚僧?が薩摩に來て鹿兒島を距る四數里の伊集院の或る村に泊りし時、主人が薩摩芋を供せしをこは好きものと其の種を所望したれと當時薩摩の國禁で之を他に出すことを得ず依つて其の旅人は一夜の間に佛像を彫刻し、其の中に一個薩摩芋を忍ばせ之を讃岐の國に傳へたりとて讃岐には其の記念碑ありと云ふ。此の事は貫一が友人坂元三郎氏より氏が甞て讃岐に旅行せられし時、調査されしもの謄寫版刷物を貰ひしこともあり、