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 此の説は鹿兒島外史といふ野史の記事から出たものであらう。 鹿兒島外史は明治十七年伊賀倉俊貞が著はしたもので正史もあるが奇談怪説を臆面もなく記述したもので、日本の權威ある史家は一の稗史小説として顧みない文書である。此の鹿兒島外史の記事を以て我が國體上重大なる史實と早や合點する人あらば甚しき不謹慎であるのみでなく畏多き次第である。此の如き記事は日本の國史としては元より薩摩藩の正史上にも全然ないことである。 鹿兒島外史の一節に

「後小松天皇深歎之累召島津元久叔父聖僧石屋在丹波永澤寺而頻謀天下統合一策」

中略

「於是後小松帝賞石屋大勲功勅建西三十三個邦曹洞禅首于薩摩國鹿兒島號玉躰龍顔北麻福昌大禅寺」 云々

 先づ怪しむべきは石屋和尚が如何なる資格があつて後小松天皇に召され、或は後龜山天皇に拝謁して法を説いたかである。彼は當時一小僧として修業中であつた。即ち此記事にある永澤寺時代は何等資格なき一雲水にて永澤寺の通幻禅師に就て曹洞宗の玄妙を聴き大に悟る所があり、子弟の約を結び通幻禅師から石屋といふ法號を授かつた禅僧生ひ立ちの時である。此の一小僧が畏多くも龍顔に咫尺して道を説き南北朝を和合せしめたことは一笑だにも値せぬことである。 當時京畿の間には長き年月間皇室と關係がある名僧が多かつたのである。然るに何ぞや名もなき通幻の一弟子が南北朝和合に携はるとは。

 又石屋が丹波の永澤寺に居つた時代は文中天授の頃であるから、南北朝御和合から二十年以前のことである。コンナ辻褄の合はぬことを歴々と書く者も信ずる者も奇である。

 石屋和尚が再び丹波國永澤寺に行つたのは應永三十年で恩師通幻禅師の三十三回忌を營んだ時である。即ち南北朝御和合の明徳三年から三十一年の後である。故に此の永澤寺説は研究するのは價値はないのである。

 尚南北朝御和合の明徳三年は石屋和尚が伊集院に妙圓寺を建てゝから二年の後で鹿兒島の福昌寺の開山となつた二年前である。此の間後小松天皇に召され後龜山天皇に説くことが出來るか。 彼は鹿兒島と伊集院にゐたのである。

 更に鹿兒島の福昌寺が勅願に依る創建とは奇説である。斯かる尊き由緒があれば薩藩史に特筆大書せられねばならぬ。かゝる記事は何もないのである。福昌寺は島津元久が建立したことは疑ふの餘地はないのである。若し鹿兒島外史の記事の如くなれば石屋和尚は禅師號を賜はつたものと見るべきである。 然るに東京帝國大學史料編纂所の調査に依れば石屋和尚は大師號、國師號、禅師號の勅號勅謚を拝してゐないのである。(通幻禅師の弟子の中には石屋眞梁の名がある)

 國史の研究は慎重でなければならぬ。殊に皇室國體に關することは一層のことである。此の説に就て研究することは畏多いことであるから説の可否は暫時く之をおき只記事の矛盾を指摘したのである。

ニ、妙圓寺建立の由來

 石屋和尚が諸國巡錫の後郷里薩摩の伊集院に歸る途中、長門國大津郡深川といふ村に一泊せんとしたけれども、此の村は大内義弘の領地で國の掟として許可なく他國者を宿泊せしむることを禁じてあつた。 石屋和尚は止むなく妖怪