Page:History of the Kingdom of Serbs, Croats and Slovenes.djvu/21

このページは校正済みです

エヴォ」ニ至リシカ第二攻擊ノ際ハ墺洪軍ハ十二月二日「ベルグラード」ヲ略取セリサレト同軍ハ同十五日早クモ同地ヲ撤退スルニ至レリ又勃牙利ハ初メ中立ヲ守リシカ維納政府ノ慫慂ニ依リ參戰ノ決意ヲ爲シ九月、十月ヲ其動員ニ充テテ準備ナルヤ攻擊ニ移リ千九百十五年十一月及十二月ニ塞比亞ノ背後ヲ襲ヒ墺軍カ「モンテネグロ」ヲ侵セル間、勃軍ハ全塞比亞ヲ占領シタルヲ以テ黑山國ノ「ニコラス」王ハ先ツ伊太利ニ次テ佛國ニ逃レタリ又塞比亞ノ「ピエール」王ハ頽齡ニモ拘ラス常ニ軍ト起居ヲ共ニシ西南「マセドニア」及「アルバニア」ヨリノ退却ニ於ケル其苦心ハ人ヲシテ泣カシムルモノアリ彼ハ千九百十五年十二月軍カCorfonニ至ルヤ初メテ之ト分レタリ

 其後聯合國ノ協力ニ依リ編成ヲ新ニシ軍需品ノ供給ヲ受ケタル塞軍ハ米國ヨリ來レル「ユーゴー・スラヴ」義勇兵ノ參加ニ勇氣百倍シ千九百十六年Corfonヲ發シ復讎戰場ニ赴ムクコトトナレリ「サロニカ」ニ於テSarrait將軍ト合シ又後Franchet d'Esperey將軍ト共ニ攻勢ニ移リテ步一步故國ヲ奪還シ勃牙利ノ降伏、「マジヤール」族治下ノ同胞解放ニ盡シタリ


        第四期 大戰以後

        (イ)「ユーゴー・スラヴ」王國ノ獨立的建設

          (一)「クロアート」國ノ獨立

 千九百十四年十一月墺洪軍ノ侵入目睫ニ迫ルヤ塞比亞ハ擧國一致內閣ヲ組織シ首相ハ同月二十四日「ニツシユ」ニ開カレシSkouptchina(國民議會)ニ其ノ政綱ヲ發表セリ此ノ際墺洪國內ノ「ユーゴー・スラヴ」ハ政府ノ極端ナル壓迫ニ依リ其活動ヲ殺カレシモ其ノ一部ハ國外ニ脫レ千九百十五年五月十五日倫敦ニ「ユーゴー・スラヴ」委員會ヲ設立シ其ノ首領Ante Trumbitchハ協商國政府ニ對シ「ユーゴー・スラヴ」問題ニ關スル覺書ヲ提出セリ「ユーゴー・スラヴ」ノ民族的要求カ具體化サレシハ之レヲ以テ嚆矢トス彼等ハ「セルブ・クロアート・スロヴエーヌ」ヲ領土トスヘキ旨ヲ述ブルト共ニ西南歐羅巴ノ平和ハ一ニ「ユーゴー・スラヴ」ノ統一ニ依リテノミ期シ得ヘキヲ論セリ而シテ該委員會カ南北亞米利加ニ於ケル同胞ヨリ資金ヲ供セラルルニ及ヒ其ノ活動ハ倍加シタリ

 外交上ノ理由ニ依リ個々ノ行動ヲ執リシ「ユーゴー・スラヴ」委員會ト塞比亞トハ露西亞革命後事態一變スルヤ千九百十七年七月「コルフー」ニ會議ヲ開キ塞比亞閣僚、「ユーゴースラヴ」委員會代表者、塞比亞議員等列席シテ「ユーゴー・スラヴ」統一問題及其實行方法ヲ硏究シ其結果同二十一日一ノ宣言書ヲ發表セリ該宣言書ハ塞比亞政府ノ手ヨリ口述書ニ依リテ「コルフー」ノ聯合