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わたくし通りすがりの身。来歴は何か知らねど、たかが女なり。老人としよりに失礼はあり勝ち、あれ御覧ぜよあの通りわびてもゐること、往来はそのうちにも人の目口うるさきに、洋刃さあべる厄介やつかいも御身分がらいかゞかや。なんわたくしに此処こゝの花、もたせては下さらぬか」

と、青柳あをやぎのいと優しくれば、

「はてさて、他人のらぬ口出し。わびことばですむほどなら、我等今頃いまごろは手を引くはずなり。済まぬ次第きゝたしとならば聞かせもせん。我等つき三がげつ雨露あめつゆしのがせた事もある大恩人、その上に彼奴あやつめが口車に乗せられて、五円といふ大金たいきん貸したは此方こつちも商売づく、五一ごいち利息りそくはよしや天地が逆さまにもなれ、一人子ひとりごの病人死にもせよ、待つてやる約束もなければ、負けてやる覚えもなし。それに何ぞやなきごとの数々、地蔵の顔も方図はうづのあるもの。利足りそくかたにも不足なれど、なに一つでも取るが取りどく、この代物しろもの引取つて行かんといふは、余り無理でもなきつもり」

と、鼻で笑ふひげづら憎くし。若き男はからと高笑ひして、

なにぞと思ひしに金ですむ事なりしか。さりとては訳もなし。らぬ他人と言はるれど、いづれ四海しかい内輪うちわ同志どし、金は我れ立て換へん」

と、紙入れ探ぐつて五円札一枚、一円一顆ひとつ

「これではまだ御不足ならんが、内実ないじつ持ち合せはこれりなり。なんと雨露しのがせるほどの大恩人さま、了簡れうけんしてはつかはされぬか」

と、あくまで柔和はよそほひながら、「否なと言はゞあの純白の拳󠄁こぶし何処いづこふるつて、あの髭男ひげおとこ微塵みじんになるも知れがたし」と、芝居気しばゐぎのある見物がさゝや可笑をかし。

 の男はきさるやうに、金懐中ふところにねぢ込んで、いだす証書幾通、幾多いくたの人の涙の種を印刷にせし文言もんごん名当なあて、あれかこれかとがしして、

「よしか、たしかに渡しましたぞ。不足を言はゞまだなれど、取らぬにはし。これで算用ずみとすれば、老婆ばゝあめはたいしたまうけもの。親分おやぶん見付け出して、これから利の出ぬ金借りらるゝやら。人事ながら慈善家の末が案じられる」

と、冷笑あざわらつて払ふもすそちり、礼も返さず恥ぢもせず、人かき分けてのさりのさり、行くての大地だいぢ裂けもせず、つまづく石のなきも不審いぶかし。若き男は老女がぶる礼よくも聞かず、

なん是式これしきのこと、有つたればこそ役にも立つたれ、無くは我れと其方様そなたさまといづれ替らぬ難義なんぎふち。浮き沈みは浮世の常に、お礼は其方様大分限だいぶげんになられし時、此方こなたより御催促ごさいそくに出るまでは、お預けのことお預けのこと。はて名告なのりをする程聞こえてもをらぬ名、先づそれもご免なされ」

と、取すがるそで引はなして、優然いうぜんと去る後ろ影、光明赫灼かくしやくとして輝くとぞ拝まれぬ。


第三回


 とし十三の暁より、絵筆とりめて十六年、一心いつしんこの道に入江いりえ籟三らいざう、富貴を浮雲ふうんむなしと見れど、なほ風前のちり一つ、名誉を願ふ心はらひがたく、三寸の胸中欲火よくくわつねに燃えて、高くかくるべき