洗ひざらしの浴衣の肩、我れ知らず窄めて小走りするお蝶、並らぶ縁日の小間もの店に目もくれず、そゝぐは一心兄の上ばかり。「願ひは富貴でなく栄華でなし。我が形この上の襤褸に、よしや縄の帯しめよとまゝ、我れ生涯に来べき運、あらば兄様の身にゆづりて、腕の光りの世に現はるゝやう、みがく心の満足されるやう、二つには同じ画工の侮り顔する奴を、兄さまの前に両手つかせたく、仏壇のお二た方に、お位牌の箔つけて欲しき」がそも〳〵の願ひ。手内職の手巾問屋に納むる足をそのまゝ、霊驗あらたかなりと人もいふ、白金の清正公に日参の、こむる心を兄には告げねど、聞かば画筆なげ出して、「芸に親切の志、我れまだ其方に及ばず」とや言はん。
下向はことに家のこと気になりて、心も足もいそぐ道の、とある小路に夥しき人だち。喧嘩か物どりか何にもせよ、側杖うたれぬやうと除けて通る、多くの人の袖のしたを、洩れて聞こゆる涙ごゑ、ふつと耳に止まりて、我しらず差のぞけば、憐れや五十あまりの老女、貧にも限りのなきものかな、我れに比べて今一倍あさましき有様。むかしは由緒ある人か、皺める眉目どこか品もあるを、不憫やこれが商売の、何焼とかいう銅の板、うち渡せし小屋台のかげに、頭すりつけて繰りかへす詫ごと。相手は三十ばかりの髭むしやくしやと、見るからが憎く気な奴、大形の浴衣胸あらはに着て、力足ふみ立てつ耳も聾よと喚き立るは、いづれ金が敵の世の中。元来は懇意づくの、生ながらに顔赤め合ひしなかでもあるまじきに、始めは伏し拝みて受たる恩、返へすことのならぬは心がらならず、この社会に落入りし身の右左不如意にて、約束せしこと約束のやうにもならねば、我れと恥ぢて心ならぬ留守も遣ひ、果ては言ひたくなき嘘に、一月を延ばし十五日を過ぐせど、その揚句さて何ともならず、つまりつまりては烏羽玉のやみの夜、家ぬしの垣の外に両手合はせて拝みながら、不義理不名誉の欠落もすめり。さてもこの老女その類ひと覚しく、四辺はづかしくや小声の言訳、且つは涙ながらの詞とて、首尾全くは聞えぬ物の、取り集めて察すれば、娘にやあらん杖はしらの子、煩ひてゐるかの様子。
「それ本復さへなさば、又つくべき方もあり。今暫時の間まちて給はれ」と、あはれ腸しぼり
尽くす悲しげな声。聞くお蝶は涙もろの女の身、ましてや同じ情くみて知らぬ事もなければ、
何の人事と聞き過ぎられず。
「さりとはあの男の聞訳なさ。百円のかたに網笠なれど、この屋台おこせといふ。それ取られては私しと娘、今日から喰べる事がなりませぬ、お慈悲と合す手を、あれ打ちをつた、憎くい奴にくい奴。自分は手前はさして困る様子もなく、大々しい身躰つきの病ひ気もなささうなに、あの老人のしかも病人抱へて、困苦さこその察しもなきは鬼か夜叉か。あらばあの横つら金で張つて、美事老女救つてやりたきもの。それ処ではなき身、この財布の底はたけばとて、何になる物でなし。口惜しや可愛や」と、お蝶身もだえする程残念がり、黒山と立つ人じろり眺めて、「切めて一人はこの中に憐れと見る人ありさうな物」と、歎息する一刹那、お蝶の肩さき摺るほどにして、猶予もなくずつと出し男。何ものと思ふまもなく、獗りたつ鬼男の前、振あぐる手の肘を止めて、軽くふくむ微笑の色、まづ気を呑まれて衆目のそゝぐ身姿はいかに。黒絽の羽織に白地の浴衣、態とならぬ金ぐさり角帯の端かすかに見せて、温和の風姿か優美の相か、言はれぬ処に愛敬もある廿八九の若紳士。老女の方顧みさま詞つき叮嚀に、