れなくは何の恩何の恵み」と、拳しをかためて突立ち上がり、見れば見れば月明りに、浮きて見ゆる金銀閣寺、砂子一つ筋一本心をこめぬ処もなく、まして廻ぐりの金なし地。「鳴呼幾年の苦の名残、描きも描きたり我れながら、天晴斯道の妙の妙、この筆たえてつぐ人ありや。我れ道に入りて十七年、惜しみに惜しみし名を記るして、見よや海外の青眼玉、来たれ万国の陶器画工、日本帝国の一臣民、入江籟三自慢の筆と、心に誇りし満足の品、これ何として砕かるべき、これ何として砕かるべき。兎にも角にも世に合はぬ身の、一生の思ひ出これに止めて、入らんか深山の、それも口惜し。お蝶ふたゝび帰りもせば、辰雄に邪心のなくもあらば、この品保存もなるべきを」と、双手に抱いてためつすがめつ、眺め入る心惚として、我れ画中に入りたるか、画図我が身に添ひたるか。お蝶もなし辰雄もなし、我慢もなし意地もなし、金光我が身に耀いて、四方に沸く喝采の声、莞爾と笑めば耳ちかく、
「籟三愚物のつかひ道なし」と、聞こえ出づるは篠原か、「汝れ」と振仰ぐ袖ひかへて、「お風めすな」と優しき声、「嬉しや、お蝶かへりしか」「兄さま、彼方へ諸共に」と、指さす方は金閣寺銀閣寺、咲くや秋草小蝶とんで、立わたる霧さりとては、我が金なし地にさも似たり。
面白し面白し、蛟龍つひに池中の物ならず、湧き来たる雲形のうちに立浪の丸模様、登り龍下り龍龍の丸、蝶の丸花の丸鳳鳳の丸、をどり桐くるひ獅子二葉葵、源氏車槌車、ぼたん唐草菊がら草、吉野龍田の紅葉に花に、「あれも美なり、これも美なり。お蝶も美なり辰雄も美なり、
中に就て我が筆美なり。これを捨てゝ何処に行かん、天下万人みな明きめくら、見すべき人なし見せて甲斐なし。我が友は汝よ、汝が友は我れよ、いざ共に行かん」と抱きあげて、投げ出だす一対庭石の上、戞然のひゞき大笑のひゞき。夜半の鐘声とほく引きて、残るものは片々の金光一輪の月。