Page:HiguchiIchiyō-Umore gi-Shōgakukan-1996.djvu/13

このページは検証済みです

じん二三十買ひつぶして、新たに工事をいそぐは何。おしたてしくひせおもてに博愛医院建設地と墨ぐろにるして、積み立つる煉瓦れんぐわの土台に、きやりの声のにぎはしきととも四方よもに聞えわたる篠原辰雄、うきのうきを憂きと捨てずして、よしがみの人情あさましゝと、しん奮ひ起す愛世済あいせいさいみんの法。我れ微力せうの身の、たふれてまばまんのみ、今日こんにち細民困窮のあり様、見るにはらわたたえずやある。知らずやきん九重きうちやうの人、埋火うづみびのもとに花を咲かせて、面白しと見る雪の日は、節婦こごえて涙こほるべく、たい高楼かうろう岐阜ぎふ提燈ちやうちんともしつらねて、風をまつ納涼のは、やりのもとに孝子泣くめり。中にあはれは疾病しつぺいの災ひ、名医もんにあり、良薬ちかきにあつて、しかも求めがたく得がたき身、天命ならず定業ぢやうごふならず、救はるべき命の残念さ、妻の子の身いくばくぞや。人生れながらに悪意なけれど、迫まりてはとくとく取捨の猶予なく、天を恨み地を恨み、はんこれより乱れて国家の末いと危ふし。これを救ふことじんにありと、我れ先づ資産をなげうつて、一着手を救生きうせいの急なるに起し、一方かたへは富国利民の策を講じ、一方かたへけん紳商しんしやうの門に、協力賛助を求むること切なるに、とくならず、何某なにがしの殿それの長官、意気投じ処論合つて、甲より乙に美声を伝へれば、徳義をつの名誉と心得るともがらなんとなしに雷同して、世上の評判くわつと高く、見ぬ人聞かぬ人を慕ひ、天晴あつぱれ仁者と知らぬ者なくなりぬ。

 その行ひそのことば、見るにつけ聞くにつけ、まじはるにつけつむにつけ、籟三だいに慕はしくたつとく、口腐くちくされ他人にじよは仰がじと定めし、我慢のつのはこの人の前に折れて、鬱悶うつもんの心しのびがたく、わがげふへい不振の物語より、

だう挽回ばんくわいの志し一日の休むなけれど、まことをいはゞ勢力なき身の聞き入れてくれてもなく、生中なまなか説くこと嗤笑ものわらひになりて、はては後ろ指さゝるゝことくちし。さりながらそれも道理ことわり、我れこの道にいりたちて十六年、まだたびの共進会に名を掲げたることもなく、我れ自由の筆、貧ゆゑにはばられねど、中々の直行にくまれて、とんうけよからねば、注文はれんぶつほかもなく、こと心とがつせず、筆なにとしてふるはるべき。不満々々のかたまりは、なんの世の中、あきめくども、これ相応と投げ出しものにして、意匠もちひず鍛錬たんれん馬鹿ばからしく、品物のおもてよごしてやれば、我が血涙をみし粗物も、れ衣食のためにする粗物も、見る目になんの変りなく、口ほどもなきものあざけられて、我が名いよ地に落ちたり。れん月鍛げつたんの筆、経営惨憺の意匠、心にあつて物にゑがかず、我れ男子の身の精神一到、なほことらぬ腑甲斐ふがひなさ。世人めいなきか我れもし惑へるか、誰れに寄つて語り合さんすべなく、冥々めいの内に重ねし年幾年いくねん。君びはだうの流れに立ちし人、み知り給ふ事もあるべし。我がための名案くだし給へ」

と、打明かす意中、辰雄しきりに歎じてまず、

「げによくも合へる物かな、我が国家を見る心そのほかいづる事なし。徳義の廃頽はいたい人情の腐敗、れを憂ひれを歎けど、道に立つ人大方おほかたは、濁流こうに身を投じて、しかもけがれを知らぬともがら、味方少なくあだは多し。さりながら捨てぬところに物は成り立ちて、二人ふたりたりの正義の士に、知られめし昨日きのふ今日けふの事業。はゞかり多けれどこれ手本とも御覧じて、れられぬ世を捨て給はず、腕かぎりの品物こしらへて見給はずや、その資金は我れ受けもたん。この事廉直れんちよくの君が心にいさぎよしとおぽさぬか知らず、それは君一身の小事のみ。いくの画工のねむりを覚まして、国益の一助、たゆたふところか。吾邦わがはう特有の石陶器いしやきもの価廉あたひれんといへどしなえいふつに及ばず、独り薩州陶器のみは、しつ