るに付けて、沸き来る企望のさまざま、及ばぬと知つて捨られぬがこれも癖にや、社会の為の東奔西走、此処東京に計画ありて、出京の昨日今日、生中此方彼方に名を呼ばれて、称へらるゝ身汗あゆる心地。昔しを思へば大恩の師に、よしや理由は何にもせよ、重々の不始末もあるを、素知らぬ顔に青天を歩行くさへ、日月の手前恐ろしく、世を欺くに似て心安からず、手を置かぬ胸夢おどろきて、人知らぬ罪中々にくるしかりきと、腹ある限り告白して、屑よしとする様子、表面をつくろひて底にごる、軽薄者流を厭ふ目には、よくも返りし本善の善、稀なる人よと感じられて、過ぎし過失は美玉のくもり、しかも拭ひ去つて見るに、却つて光りは勝る心地、籟三しきりに憎くからずなりぬ。
中々物語り尽きもせぬに、交際ひろき人のならひ、訪問者陸続とうるさく、
「何と入江様、人気なき閑静な処にて、一日ゆるりと御高説承りたし。君は何時もお暇か」
と問はれて、
「はてさて、貧者に余裕はなし、気楽な事いひ給ふな。人気なき処と言はゞ、我れ佗住居の閑静さ、裏の車井に釣瓶くる音か、表に子守り歌きこえる位のもの、此処よりは遂ひ其処なり。何時ぞは来て御覧ぜよ、麦めし炊かせて薯預汁位の御馳走はすべし」
と無造作の詞、
「さりとは浦山しきかな。世の事聞かず人に交はらず、何事の憂きも宿らねば、胸中いつも清しかるべく、凡界俗境遠く離れて、取る筆一つに楽みをしる御身分、我れ雲泥の相違」
と歎息する辰雄。籟三引きとりて、
「何の浦山しき身分か。筆心にまかせず業世と合はず、我れと埋もるゝ身のはては、首陽か汨羅か底しらずの境界。さりとは世の中あてもなし」
と笑つて、遠慮なき昔し語りに、胸も開らく障子の外に出づれば、廊下いく曲りか広々とせし住居、実に人の身は水の流れと、物言はず顧みれば莞爾と送る辰雄の姿。嗚呼人物と心にほめて、下婢が直す百足下駄、これ特色の慚る体なく、喜色洋々門内を出しが、帰宅の後もお蝶相手にこの物がたり。平常は蛇蝎と忌み嫌ふ世の人、兄さまの褒め者とはどんな人、お蝶見たしと思はねど、喜ぶ兄に我も嬉しく、一日ありて二日目の夕がた、軒ばの榎に日ぐらしの鳴き出る頃、手仕事叮嚀に取片づけ、家の廻り奇麗に掃除して、打水いそがしき門口に、
「入江様は」
と音なはれて、
「誰君」
と振かへる襷すがたを、さても美形と見るは辰雄。お蝶はツ〔ママ〕と心付て、俄にさすや双頰の紅ゐ、色は何の色我れしらず。「見しは清正公のあの時のあのお人。何として我家へは」と、騒だつ胸にこれよりや知る恋。
第五回
床のもとの竈馬かたさせと鳴いて、都大路に秋見ゆる八月の末、宮城の南三田のほとりに、